オペラ『Scary Beauty』 「自律」するアンドロイドはいかなるオペラを演じるか 佐々木敦 評
『Scary Beauty』は、作曲家の渋谷慶一郎のコンセプトとディレクションのもと、渋谷とは「第三項音楽」以降、継続的に共同制作を行ってきた複雑系/生命理論研究者の池上高志、近年、著作やメディア露出によって独自のヒューマノイド理論を提唱しているロボット工学者の石黒浩など、複数分野の専門家が結集することでクリエイトされた「アンドロイド・オペラ」である。2018年7月22日、東京・お台場の日本科学未来館での世界初演を鑑賞した。
ところで、これはいまも進行中のプロジェクトであり、ホームページ上の説明文でも、当日終演後に行われたトークショーにおける渋谷の発言でも、この日に披露された4曲にあと3曲が追加され、最終的に全7曲のオペラになることが表明されている。来るべき完成版に向けて、技術面でもさらなる進化が予想されるため、本レビューはあくまでも初演に関するものであることをお断りしておきたい。
ステージ中央には石黒と池上らが制作したアンドロイド、Alter2 (オルタ2)が鎮座している。オルタ2はこのオペラの指揮者と歌手を兼ねている。その横にはグランドピアノとラップトップ・コンピュータがあり、渋谷慶一郎が座っている。彼らの向こう側には総勢30名のオーケストラ(人間)が控えている。上方には主にオルタ2をアップで映し出すためのスクリーン、舞台奥の左右には歌詞が英語と日本語対訳で表示されるモニターが据えられている。
上演/演奏はじつに淡々と行われた。オルタ2の挙動のほかにスペクタクル的な演出は皆無であり、1曲が終わるたびに観客の喝采を受けて、すぐ次の曲に移っていく進行は、ほとんどストイックでさえあった。現時点での全曲が終わったのは、開始から40分くらいだっただろうか。その後、日本科学未来館展示企画開発課課長の内田まほろの司会による、渋谷、池上、石黒のアフタートークが行われた。
『Scary Beauty』のプロジェクトとしての核心は、アンドロイドであるオルタ2がリアルタイムでオーケストラの「指揮」をする、という1点に集約される。この公演は日本科学未来館で開催された「ALIFE 2018(人工生命国際学会)」のパブリックプログラムとしてなわれた。ホームページにはこうある。「演奏に際した音楽全体のテンポや強弱はアンドロイドが自律的に決定し、人間はそれについていくことしかできない」。専門的なことは私にはわからないが、オルタ2に池上らが開発した「AIの自律的運動プログラム」が搭載されることで可能になったものだという。だが、実際の上演/演奏を観た者として言えば、上の一文はややミスリードに感じる。まず「自律的」という語の意味が必ずしも明瞭ではなく、「テンポや強弱はアンドロイドが自律的に決定」しているということを「指揮」と呼んでいいものかどうかも微妙なところである。また「人間はそれについていくことしかできない」というレトリカルな表現にも疑問を感じる。だが、これらはあくまでも文言に過ぎない。
アフタートークでも、何をもって「指揮」をしていると言いうるのか、という点をめぐって途方もない試行錯誤があった(ある)ことが話されていた。無学を承知で言えば、人間の指揮者、それも天才指揮者と呼ばれるような人々と同等の行為を、オルタ2が演算と駆動によって成しえているのかといえば、答えはノーであろう。客席の中には、そのように思ったナイーヴな観客もいたかもしれないが、そうではないということは、誰よりもまず渋谷たちがわかっている筈である。だとすれば、この先の問題は2つに分かれる。ひとつ目は今後、オルタ2が真の意味で「指揮者」に成りうる可能性があるのかどうか。これに関しては私にはわからない。私に言えることは、初演を観たかぎりでは、そうはなっていなかった(少なくとも私にはそう思えた)ということだけである。だが、言うまでもなくこの問いは、AIが「意志」を持ちうるか、というより大きな問題に直結している。これは「自律的」という語の定義に関わる。この点については今後の展開を待つしかない。
もうひとつは、そういうことでないのだとしたら、いったい何が行われていたのか、ということである。よく知られているように、石黒浩は、劇作家/演出家の平田オリザとの共同研究で、一連の「アンドロイド演劇」を発表してきた。私がきわめて興味深く思うのは、「アンドロイド」という存在を通して「人間らしさ=人間性」の在処を探究してきた石黒が「演劇」に着眼したということである。「演劇」とは「~ということにする」ということ、虚構としての約束事の共有である。平田=石黒の「アンドロイド演劇」では人間の役者に混じってアンドロイドが出演しているが、観客は誰もアンドロイドが「自律的」に演じているとは思っていない。そうではなく、そこで問われていたのは、役者Aが登場人物Bを演じているだけなのに、あたかもBという人物がそこに実在している、ということにする、ことと、アンドロイドが登場人物Cとしてそこにいる、ということにする、ことの間に、いかなる違いがあるのか、ということなのだ。アンドロイドがCとして演技していることを、舞台と客席、すなわちその時その場に居合わせた全員が、どうやって真に受けてみせるのか、ということ。それが「意志」を持っているか否かということではない。それが「意志」を持っていることにする、という仮想と想像の問題なのである。
このように考えてみれば、『Scary Beauty』という試みは一挙に理解しやすくなる。いまのところオルタ2は本物の指揮者とは言えないかもしれないが、そうだと仮定するなら、オルタ2が「自律的」に指揮しているのだとするならば、どうなるのか。つまり、これは「演劇」の問題である。そして私はこう思う。渋谷慶一郎は、このような仮想のうえで成立する、きわめて特異なオペラを作曲してみせたのだ。アンドロイドによって指揮され、歌われるという、いわばSF的な設定において書かれるオペラを。今回披露された4曲は、ミシェル・ウェルベック、三島由紀夫、ウィリアム・バロウズ、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインのテクストから歌詞が組み立てられている。なかでも私はヴィトゲンシュタインの「確実性の問題」を基にした楽曲に強く惹かれた。「アート」から「音楽」に引き寄せた感想となってしまい些か恐縮だが、私は今回の公演を観て、渋谷慶一郎は作曲家として絶頂期に入りつつあると感じた。彼はおそらく、自らの内的な要因ではなく、様々な外的条件、いや、仮想的な設定によって、自身の「音楽」を更新しようとしている。そして思い返してみれば、それはこれまでもずっとそうだったのだ。