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2019.6.6

そのとき「彼ら」とは誰なのか? 南島興評 ハーヴィン・アンダーソン展「They have a mind of their own」

近年、ターナー賞にノミネートされるなど国際的な注目を集めるハーヴィン・アンダーソンの日本初個展「They have a mind of their own」が、東京・青山のRAT HOLE GALLERYで開催された。ジャマイカ系イギリス人である自身と、ジャマイカからの移民である両親の世代の記憶を重ね合わせながら絵画を描くアンダーソンの集大成とも言える本展を、20世紀美術史研究を行う南島興がレビューする。

文=南島興

ハーヴィン・アンダーソン Ascent 2019 Courtesy the artist and Thomas Dane Gallery
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二重の疎外を請け負う画家の アイデンティティをめぐる実践

 「彼らには彼らなりの知性がある」、こうしてタイトルを訳すとき、彼らとは誰を指しているのか。ひとつの主語をめぐる繊細な問いを投げかける本展は、ジャマイカ系移民の両親のもとイギリス・バーミンガムに生まれ、現在はロンドンを拠点に活躍する画家、ハーヴィン・アンダーソンの日本初の個展である。計10点の絵画は概ねカリブ海の孤島ジャマイカの海岸線や熱帯植物、観光客向けの新興ホテルをモチーフとし、それらのイメージを網の目のように幾重にも透過させることで、トロピカルな色彩にも関わらず、どこか閉鎖的でヘテロトピックな世界を描き出している。​

展示風景より、手前から《Composite》(2019)、《Study for Ascension II》(2017)
Courtesy the artist and Thomas Dane Gallery/Rat Hole Gallery
展示風景より、左から《Ascent》(2019)、《The Garden》(2019)、《Study for Ascension I》(2017) Courtesy the artist and Thomas Dane Gallery/Rat Hole Gallery

​ 一見すると、それらの作品は絵画復権の熱狂が沈静化した1990年代において、個人史に関わる小さな物語とその外部に広がる政治的ニュアンスをもって現れた「ニュー・フィギュラティブ・ペインティング」(新しい具象)の画家、ピーター・ドイグの作風を思い起こさせる。とくに《Composite》や《Study for AscensionⅡ》(Ascensionはたんなる「上昇」だけではなく、「キリストの昇天」も意味する)ではその傾向が顕著であろう。使われる色味やその対比の作用は多少異なるが、ときにビデオカメラのレンズを通して得られたイメージなどを利用し、それらに個人的な生活風景の断片を透かし重ねて描くことで私的な記憶同士を交錯させ、アイデンティティの場を立ち上げる画風は、ドイグのそれにきわめて近い。

 また、アンダーソンの多用する、ジャマイカでは公/私的空間の境界に立てられるフェンスや、「Study for Ascension」シリーズに見受けられる支持体の方眼といった各レイヤーのつなぎ目=領域侵犯の場にあたる表現は、ドイグの場合であれば、あの水面に同じ働きを求めることができるだろう。

ハーヴィン・アンダーソン Study for Ascension I 2017
Courtesy the artist and Thomas Dane Gallery

 しかし、このような分析は私の無知が引き起こしたものである。というのも、彼のマスター時の教官がドイグその人であったことを知れば、両者のスタイルの類似はむしろ必然と見るべきであるからだ。両者はそれほどに類似している。ただし、それでなお1点強調しておきたいのは、ドイグもまた幼少期(1962〜66)を「カリブ海」に浮かぶ孤島、トリニダード・トバコで過ごしたという個人史上の小さな事実である。

 2000年以降になると、彼は再び孤島を訪れ、02年にはカリビアン・コンテンポラリー・アーツ(CCA)に自らのスタジオを設立するに至っている。つまり、両者はそのスタイルにとどまらず、「カリブ海」という地政学的に特殊な位置にありながら、それゆえに欧米にとっての負のトポスとして忘却されてきた場所を、あくまでも私的な風景として共有していた可能性もまた指摘できるのだ。

 周知の通り、カリブ海とは欧米列強の過激な覇権争いのかつての主戦場である。アンダーソンの両親の生まれ育ったジャマイカに限定してみても、16世紀初頭から続くスペイン領時代を経て、1670年のマドリード条約締結以後はイギリス領として300年近い歴史を歩み、1962年にはイギリス連邦加盟国として独立することになる。ジャマイカ移民の子としてイギリスに生まれたアンダーソンは、したがってイギリス国内からはジャマイカ移民として、また反対にジャマイカ本土からは旧宗主国の人間として、いわば二重の疎外のなかに立たされていると言える。

展示風景より、左から《Speech Bubble》(2019)、《Camera Shake》(2019)
Courtesy the artist and Thomas Dane Gallery/Rat Hole Gallery

 では、そのとき「彼ら」とは誰なのか? もちろん、イギリスから見たジャマイカ移民、あるいはイギリスに生まれ住まうアンダーソンから見た本土のジャマイカ人と言っても間違いではないだろう。だが、アンダーソン自身の立場に注視するならば、彼がまさに体現する彼らであり/彼らでないという矛盾した位置を強いられる者、すなわち、二重の疎外状態にある人々を指しているとも考えられる。

 例えば、アンダーソンが多用するフェンス=方眼は、ドイグの描く水面よりも限定的に、そのような特殊なポジションに置かれた「彼ら」の存立を、絵画という現実のなかにつなぎとめておくための網の目として機能しているはずだ。アンダーソンの作品がドイグに近接しながらも、どこかよそよそしさを含んでいるのはそのせいかもしれない。

 あるいは、どこかモネの「睡蓮」さえ思わせる《Blue Mahoe》の場合は、水面上で反射しあうイメージ片の変奏、すなわち純粋視覚によってもたらされた統合しえない光の集合を、アンダーソン流に自らのアイデンティティをめぐる政治の場へと読み返してみることもできる。その水面に映るイメージは、アンダーソンのように二重の疎外を請け負う人々のアイデンティティのたゆたいそのものであると。むろん、そのような自己反省こそ、彼らなりの知性(=a mind)と呼ぶべきものとして。

ハーヴィン・アンダーソン Blue Mahoe 2019
Courtesy the artist and Thomas Dane Gallery