日本近現代美術史へのオルタナティブとして
諸設備の改修と利便性の向上を目的に約3年間の休館を経て開催される本展「百年の編み手たち -流動する日本の近現代美術-」は、概要に「編集的な視点で新旧の表現を捉えて独自の創作を展開した編み手である作家たちの実践として、当館のコレクションを核に再考」する展覧会と書かれている。では「編集的な視点」とは何か?
「編集」という多義的であるからこそ抽象的にも響くこのキーワードの射程を、展覧会担当のふたりの言葉を抜き出すことで、前提を共有することから始めたい。
新旧の表現方法の関係を模索すること、コラージュのように異質な要素によって作品を構成すること、現実社会との関係を探ること、そして運動体の同人誌を編むことなど、多層的な意味を含むものとして考えていく (関直子「キマイラの笑いと憂鬱」本展図録、p.8) この展覧会で取り上げる編集的態度とは、既存の条件に対する抵抗であり批評であり、モダニズムに代表される普遍的な価値観を疑うような歴史認識に結びついている (藪前知子「「ポスト」と「ニュー」の裂け目に:1980年をめぐる断章」本展図録、p.16)
すなわち本展で「編集」は、作品の制作手法・内容・形態を意味するだけにとどまらず、そうして成立している作品が内包する、既存の価値観へのカウンター/オルタナティブという性質までも含んでいる。このことは、展覧会の1章「はじまりとしての1914年」——つまり「百年」の起点が、文展から離脱し、在野の美術団体として二科会を結成したひとりである有島生馬がその第1回展で発表した《鬼》(1914)の展示から始まっていることに明確に現れている。と同時に、本展が、これまでの東京都現代美術館の歴史観に対するカウンター/オルタナティブになっていることも指摘しておく必要がある。
じつは、同館の企画展として日本の近現代美術を縦断的に展示する試みはめずらしい。1995年の開館記念展はそのような展開も構想されていたようだが、実際行われたのは過去10年間の日本現代美術を18名の作家によって展望する「日本の現代美術 1985-1995」展であり、その後、「日本美術の20世紀 美術が語るこの100年」展(2000)、「東京府美術館の時代 1926〜1970」展(2005)が開催されているものの、このほかに、作品のジャンルやテーマを越境する通史的な意味での企画展は見当たらない。
そうしたなか、同様に日本美術の100年間を対象とした企画「日本美術の20世紀」が黒田清輝をはじめとするアカデミズムの紹介からはじまったことと、「百年の編み手たち」がその対抗としての在野——二科会の紹介から始まったことの差異は、歴史の起点をどこに置くかという意味で小さくない意味を持つ。
いっぽうで、例えば戦後から現代にかけて反芸術から路上観察、文学まで領域横断的に活動し、それこそ「普遍的な価値観」に対して「抵抗であり批評」を行った特異な存在である赤瀬川原平の名前や作品は、同館で作品収蔵はしているものの、本展には見られない。ひるがえって、決して一般的に認知されているとは言えない、大正時代末から新興美術運動を推進した画家の中原實の作品や、舞台美術家として知られる以前日本画家として活動していた頃の朝倉摂の本画やスケッチをまとめて展観するなど、本展は、時代が近ければ近いほど明確な共通認識は困難になっているものの、一般的に共有されている「日本近現代美術史観」を踏襲しながらも、新たな視点を導入し、これまでの歴史をズラすことで重層化を試みているかのようだ。
そもそも、このたびの展覧会は、過去の通史的な展覧会に対する現在の視点から見た不可能性の表明であるようにも思われる。「日本美術の20世紀」と「百年の編み手たち」が大きく違うのは、前者が同館のコレクションだけではなく、他館や個人からの借用もまじえることで(出品作品の3割強)、まさしく「日本美術の20世紀」を語ろうとしたことと異なって、後者が他からの借用をほとんど行わずに構成しているということだ。借用作品は、400点弱の出品作品のうち、10点にも満たない(寄託作品はここに含まない)。それを可能にしているのが、開館から約四半世紀のなかで開催された百数十本の企画展と、現在約5400点という充実したコレクションからなる日本近現代美術の研究の蓄積であることは言うでもないだろう。
近年、全国の多くの公立美術館が、予算削減もひとつの大きな要因として、コレクションを活用する企画が増えているが、このことは、企画展だけではなく、美術館の常設展やコレクションそのもの、日常的な調査研究の重要性に鑑賞者の目を向けさせるまたとない機会になっている。そして、それでもなお、借用・展示した桂ユキ、朝倉摂、多田美波の作品群から、本展におけるこの3名の作家の重要性を推し量ることができる。
今回の企画展がコレクションのみから構成されている理由は、会場や図録にも明言されていないためつまびらかではないが、全国の多くの公立美術館が、予算削減を余儀なくされ、コレクションを活用する企画が増えているのは、近年の展覧会の傾向でもある(もっとも、このことが、企画展だけではなく、美術館の常設展やコレクションそのものの重要性に、鑑賞者の目を向けさせる機会になっていることの意義は、強調しすぎてもしすぎることはない)。
さらに注目したいことは、本展で、東京都現代美術館が位置する「木場」という土地をモチーフにした表現が、「編集」という全体のテーマで構成された展示室のそこここに(ときに唐突に)展示されていたことだ。冒頭、有島生馬の《鬼》と同じ展示室に掲げられていたのは、制作年が同じ石井柏亭の版画《木場》(1914)であり、以降際立って注目がうながされるような展示がされているわけではないものの、中野淳《滅びゆく風景(木場)》(1976)など、「木場」をめぐる美術が「編集」と並行するようにして展開している。
公立美術館は設置されている行政区と無関係ではありえず、その土地の美術の歴史や、ゆかりの作家の調査研究が重要なミッションであることは疑いえない。だが東京都現代美術館は、公募団体等への貸し館として運営されながら、1975年に建築が一新されたことで学芸員が配置され、以降日本の戦後美術を展観する自主企画を行ってきた東京都美術館の理念を引き継ぐようにして、「東京都立の美術館」でありながら、東京都に限らない国内外の現代美術を対象に広範な活動を行ってきた。
その歴史を踏まえた上で今回の展開を考えるならば、美術館のあり方が大きく問われ、研究だけではなく地域の活性化も求められているなかで、東京都現代美術館もまた旧来の活動を前提としながら、これまで以上に木場/清澄白河という「地域」を重視した活動を行っていくことことが求められ、またそれに応えようとしているということだろう。休館中の2016年から、近隣の様々なスペースを利用して開催している「MOTサテライト」は、まさしく美術を市街地で展開することでまちの魅力の発見が目指されているプログラムとして、休館から開けた2019年も第4回が開催されるという。
「地域」(ローカル)への着目は、ともすれば視野の収縮のように見える側面もあるかもしれない。だが「現代美術」をその事業内容(展覧会、調査研究、収集・保存、教育普及)とする美術館や施設が、東京都現代美術館開館以降、現在までに日本各地で増えていることを考えたとき(さらに、日本近現代美術の海外での研究も増加している)、同館だけでそれを担っているわけではないからこその、これは積極的な視野の拡大であると考えるべきだ。
「都立」ということを念頭に置く場合、このような方向性に基づく事業は、木場/清澄白河だけではなく、美術館が位置する場所以外の「東京都内全域」での東京都現代美術館のプログラムを期待させるだろうか? しかし、都立の美術館は同館だけではない。東京都美術館(台東区)、東京都庭園美術館(港区)、東京都写真美術館(目黒区)、そして美術館ではないが同じ財団の江戸東京博物館(墨田区)と、複数の施設・地域に及ぶ(正確には、いずれも運営は、指定管理者制度により、公益財団法人東京都歴史文化財団である)。ならば期待すべきは、それら異なる専門領域・時代・地域を内包するミュージアム同士の連携による、都内全域をその領域に想定したまったく新しいプログラムの創出だろう。夢物語のようにも思えるが、このような連携の先に、新しい文化芸術が「編集」されるかもしれない。
さて、これらのことから考えさせられるのは、東京都現代美術館が本展を通し、自らを「編み手」として、日本近現代美術史と自館の役割を編み直そうとしているということにほかならない。つまり美術館もまた「流動的」な存在なのであり、価値判断や役割を固着させず、時勢のなかで常に自己を省みながら活動を行っていくことが重要であるということを、本展は展覧会全体を通して示している。
開館から24年目の新たな東京都現代美術館のマニフェストとして、私は本展を見たい。