• HOME
  • MAGAZINE
  • REVIEW
  • 不安と期待。 中村史子評「小さいながらもたしかなこと 日本…
REVIEW - 2019.1.29

不安と期待。
中村史子評「小さいながらもたしかなこと 日本の新進作家 vol.15」

写真、映像の可能性に挑戦する創造的精神を支援し、将来性のある作家を発掘するために2002年から毎年開催されている東京都写真美術館の「日本の新進作家」展。第15回展では「小さいながらもたしかなこと」をテーマに、森栄喜、ミヤギフトシ、細倉真弓、石野郁和、河合智子の5名を紹介した。本展のなかでも、とくに印象的な2名の作品に焦点を当て、愛知県美術館学芸員の中村史子が展覧会を読み解く。

文=中村史子

ミヤギフトシ Sight Seeing/感光 #24 「Sight Seeing/感光」より 2018 作家蔵

ミヤギフトシ Sight Seeing/感光 #24 「Sight Seeing/感光」より 2018 作家蔵

揮発、沈殿、寸前であること

 子供の頃、注射前に腕を拭く消毒綿をいつも不思議に感じていた。エタノールは肌を濡らしたかと思うと瞬時に揮発し、スッとした冷感をもたらす。やがてくる注射の番を待ちつつ、エタノールが触れた瞬間を反芻する。

 もうひとつ、まじまじと見入ってしまうものに黒蜜の中のくずきりがある。黒蜜の中にくぐもるくずきりは、ほぼ姿形が見えず輪郭の断片がかろうじて確認できるくらいである。その状態が面白くて、あえてくずきりを引きあげず底に沈むままにしておく。

 東京都写真美術館の「小さいながらもたしかなこと 日本の新進作家 vol.15」に出展された2作家の作品は、消毒液とくずきり、すなわち揮発するものと沈殿するものを想起させる。私は青白い細倉真弓の写真からエタノールのツンとくる匂い、ミヤギフトシの写真からは黒蜜の重い甘さを連想する。

細倉真弓の展示風景 撮影=木奥惠三

 両者とも、作品を見せる際の照明に意識的である。細倉は薄暗い展示室内の壁に写真を吊り、それら写真の多くを額からはみ出した矩形の照明で照らし出す。

  通常、スポットライトの照射範囲を作品に対して絞る場合、作品の形態に添わせるのが定石である。照明を作品のみに絞ると、作品はピン留めされた昆虫標本のように壁に固定され、さらに聖遺物よろしく作品自体から光が放たれているかに見える。

  しかし、細倉は照明を写真部分に限定せず、壁をも煌々と照らし出す。白く囲われた壁面から飛び出す額の物質感、さらに、照射範囲の輪郭の揺らめきによって、川崎のイメージは何か収まりが悪く、不安定な様相をたたえる。つまり、彼女が撮影した川崎の街並みや若者たちは、時間を超越したイコンのようなイメージからは程遠い。流動する時間のなかから切り取られたイメージの瞬間性と、瞬間の不可逆性がより鮮烈に際立っている。

 光はこんこんと白壁に吸収され続け、その明るさのなかでかつてあった言葉は消えてしまった(*1)。イメージもまたいまにも揮発しそうであるが、平滑な写真表面は冷ややかに光を跳ね返す。揮発寸前、その僅かな瞬間の内にイメージは姿を保っているのである。

 ミヤギフトシの展示風景 撮影=木奥惠三

 ミヤギもまた、暗室に作品を展示している。最初の暗室には男性の肖像写真が展示され、奥にはその写真の撮影時の様子が動画で流れている。いずれの肖像写真も、夜中、被写体となった男性の部屋で灯りをつけずに撮られたそうで、展示室の暗さ、狭さがその環境を彷彿とさせる。

 写真および動画から気づかされるのは、被写体も撮影者も基本的に待機している点だ。長時間の露光を、そして撮影自体が終わるのを2人とも暗闇でじっと待っている。

 待つ行為は耐える行為でもある。姿勢を変えないこと、集中力を保ち続けること、そして、その場の気まずい空気。ミヤギも被写体もそれらに耐え合うという点において共闘している。もしも互いに耐えるのを止めてしまったら、彼らの営為を支えてきた写真撮影というフレーム自体が崩壊してしまうのだ。

 それがわかったうえで、ミヤギはただの他人でしかない男性とフレーム崩壊の寸前まで漸近しようと試みる。何か意味ある言葉を交わすでもなく、暗闇に沈む相手の身体をそのままにしておくこと。その状態にあえて留まりながら、ミヤギは被写体と撮影者の関係や撮影行為を肯定するという、いままでにない方法を探しているのではないか。

 あたかも薄型モニターのように展示された肖像写真を眺めていると、それが微妙に動いているかのような錯覚に陥る。呼吸に合わせて被写体の胸が上下し、瞼が震える瞬間を鑑賞者は期待する。けれども、どれほど待ってもその希望は叶えられない。ただ、受け身で待つこと、触れずにいること、明るみに出さないこと。それを学ぶのだ。

石野郁和の展示風景 撮影=木奥惠三

 ところで、改めて本展全体を眺めると、対象こそ違うが、出展作家はいずれも何か決定的な事態へと至る直前や、決定事項の手前にある可塑的かつ持続的な状況を扱っていることに気づく。

 家族像に収斂されるかどうかの境について、考察を続ける森栄喜。歴史的建造物の再建過程を、流動的な水の流れと重ねて見つめる河合智子。イメージと言語が合理的に機能する手前の状態に関心を注ぐ石野郁和。

森栄喜の展示風景 撮影=木奥惠三

 これら出展作家の中でもとりわけ細倉とミヤギの作品が印象深かったのは、両者がこうした未然の状況を、被写体、撮影過程、展示方法等の組み合わせによって極めて繊細に描き出しているからだろう。

 細倉は川崎のイメージを、空虚な矩形の内に霧散する直前の状態で示し、ミヤギは彼らがじっと暗闇に身を浸し続けている状態を取り出して見せる。それはあたかも、消毒液が揮発し注射針の痛みを経験する前、あるいは黒蜜から引き上げられたくずきりの意外な硬さを歯で確かめる前の、不安と期待、そしてじれったさを抽出してみせるかのようだ。

細倉真弓 「川崎」より 2016 作家蔵

*1ーー本展の鑑賞ガイドやカタログに掲載された細倉の言葉によると、今回の展示方法は雑誌『サイゾー』のレイアウトを意識してのことだとわかる。出品作品「川崎」シリーズは、『サイゾー』のルポルタージュ・シリーズのために撮影され、ライター磯部涼のテキストとともにレイアウトされた。本展における白い余白は誌面のテキスト部分に当たるものと思われる。