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REVIEW - 2019.1.18

「家族アルバム」というフォーマット、それを超える強いつながり。原田裕規評 森栄喜展「Letter to My Son」

身近な共同体を社会形態の縮図として、映像やパフォーマンス、文章、詩、など多彩なメディアを横断するような作品を発表してきた森栄喜。東京・新宿のKEN NAKAHASHIでの個展では、森が初めて撮影・編集のすべてを手がけた映像作品《Letter to My Son》と、便箋や封筒と写真を組み合わせた7つの作品「Letter to My Son(#1~#7)」を発表した。本展を、美術家の原田裕規がレビューする。

文=原田裕規

展示風景 撮影=森栄喜

展示風景 撮影=森栄喜

写真の追体験

 ときに古い家族アルバムをめくっていると、そこにある写真から伝わってくるイメージの宛先がわからなくなってしまうことがある。ここで述べている「家族アルバム」とは、「私の」家族が写されたアルバムだけを意味しているのではなく、「私以外の誰かのもの」も含めた家族アルバムをも指している。つまり、ここで問題としているのは「家族アルバム」というフォーマットそのものである。

 筆者は個人的なプロジェクトとして、およそ1年半にわたり写真の収集活動を行っているが、そのなかには様々な「家族」の写るアルバムが含まれている(正確に言えばそれらの写真はいまのところすべて「誰か」のアルバムである)。

森栄喜 Letter to My Son 2018 © Eiki Mori, Courtesy of KEN NAKAHASHI

 リドリー・スコット監督による映画『ブレードランナー』(1982)には、作中に登場する人造人間(レプリカント)が、自らの存在証明として写真に固執する場面が描かれている。結局、それらの写真は所有者(レプリカント)と、本人が写されたものではない「家族写真」であることが明らかになることによって、その記憶が事後的に編集されたものであることがわかり、レプリカントは深く傷つくこととなる。

 おそらく、この描写を見た私たちの多くは、レプリカントに対して思わず共感を覚えてしまう。なぜなら、自らを「人間」であると信じ込んでいる私たちが、その存在証明として所有する(「幼いころの私が写っている」とか「これは私の父/母だ」とかいった説明に用いられる)写真に対しても、実際のところ「人造人間」と同じくらいには、写真とのたしかな関係性を客観的に証明することなどできないからである(ちなみに、こうした写真の虚構性と事後性をサスペンスの形式に落とし込み、物語構造にパラフレーズさせた傑作にクリストファー・ノーラン監督の『メメント』[2000]があるが、それについてはまたの機会に)。

森栄喜 Letter to My Son 2018 © Eiki Mori Courtesy of KEN NAKAHASHI

 さて、このようにして「私のもの」と「誰かのもの」の境界が曖昧になってくるとき、真っ先に疑われるのは「所有」という概念である。例えば、私たちにイメージを所有することなど可能なのだろうか?

 本展のイントロダクションには「鎖のような強いつながり」という言葉が含まれていたが、これはあたかもジュリアン・グリーンの小説『ヴァルーナ』(人文書院、1979)を想起させる。同書は、中世の北ヨーロッパに生きる「ホエル」と、ヴァロワ王朝期に生きる「エレーヌ」と、現代フランスに生きる「ジャンヌ」という3人の無関係な人々が主人公として登場し、それぞれ独立した3つの中篇に共通する「一箇の鎖」が登場することによって、全体を通して一篇の長編にもなるという「輪廻」の物語だ。

 この「鎖」は、ある2者になんら結びつきがないにもかかわらず、そこに予期/想起されてしまう「結びつき」の具現化である。

 あるイメージを「私だけのもの」と断言することはできないが、そのイメージを「私たちのもの」と断言することはできる。知らない誰かの家族アルバムをめくるとき、知らず知らずのうちに自分や見知った誰かの姿を探してしまうのは、それが「私のもの」である可能性をわずかなりとも残しているからだし、自分の家族アルバムをめくっているときに、懐かしさとともに忘却されていた記憶を「発見」する楽しみがあるのは、それが「私以外のもの」である可能性をわずかなりとも残しているからだ。それゆえに、『ブレードランナー』でレプリカントの写真がフェイクという側面をことさらに強調して描かれていたことは、こと写真に関してだけ言えば、その本質を描ききったというよりも、その一側面を描き損なったと言うほうが正確であるだろう。

 ここまでずいぶん遠回りをしてしまった。そろそろ森栄喜の話を始めよう。森はかねてより「家族」に関する作品を発表してきた。同性のパートナーや友人らとの親密な関係を記録した《intimacy》(2013)、様々な「家族」のなかに自らが加わりセルフタイマーでその模様を記録した《Family Regained》(2017)などが代表的である。

森栄喜 Letter to My Son #1 写真、手紙、封筒  © Eiki Mori Courtesy of KEN NAKAHASHI

 本展は、森の映像作品《Letter to My Son》と、便箋や封筒と写真を組み合わせた7つの作品によって構成されている。また展覧会と併走して、森が現在『週刊読書人』で「Letter to My Son」という同名の連載を書いていることにも触れておくべきだろう。それらはそれぞれ異なる時間を有していながらも、9.11前のニューヨークと現在の東京を舞台にした「ある人」とのイメージを共有している。

 映像作品の尺は7分30秒と決して長くはなく、また始まりと終わりもそれほどは強調されていないため、会場で私たちはソファに座ったままいつまでもその断片がつなぎ止められたような映像のループを見続けてしまう。またそのなかには、ギャラリーを訪れた私たちの先ほど/あるいはこれから目撃した/する新宿3丁目の街角や、ギャラリーへと続くビルの狭くて急な階段も登場するので、作品の体験と自らの体験との境界も曖昧になってくる。

 この映像と展覧会で表現されていることの多くは、先に書いた「私たち」の感覚、もっと言うとヴァルーナが書いたような「輪廻」の概念に結びついている。

森栄喜 Letter to My Son 2018 © Eiki Mori Courtesy of KEN NAKAHASHI
森栄喜 Letter to My Son 2018 © Eiki Mori Courtesy of KEN NAKAHASHI

 本作=本展において重要なポイントは、そこに描かれている「ある人」が誰であるのかが示唆されていながらも、決して明示されてはいない点にある。映像で具体的に描かれる光景のほとんどは、ニューヨークや東京の街中を「彼」(と、ときおり視線が向けられる「私」)がさまよい続ける情景のみであるのだ。

 彼らはどこかへ向けてまっすぐ歩いていただけなのかもしれないが、編集によってそれぞれの映像が複数に切り刻まれては何度も繰り返し結びつけられているため、彼らは行くあてもなくどこかへ彷徨い続けているかのように見える。そんなふうにして、いつまでも「誰か」のままでいる「彼」を、私たちはいつまでも家族アルバムをめくり続けているかのごとく、飽きることなく見続けてしまうのだった。