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ミヤギフトシ連載20:ミランダ・カーター『アントニー・ブラント伝』 窓の向こうと森の向こう

アーティストのミヤギフトシによるレビュー連載。第20回で取り上げるのは、ミヤギがサマセット・モームとともに、ロンドンでのリサーチ中に興味を抱いていたというイギリスの美術史家、アントニー・ブラントの伝記。それは今年ミヤギ自身が企画した「Closed Windows」展にもつながる。

文=ミヤギフトシ

ケンブリッジ大学沿いを流れるケム川 撮影=ミヤギフトシ

 2017年8月の中頃、私はケンブリッジを訪ねた。ひと月ほどロンドンにリサーチで滞在していて、主にサマセット・モームの足取りをたどることが目的だった。モームのほかに興味を惹かれていた人物が、美術史家のアントニー・ブラントだった。ケンブリッジで学生生活を送り、その後同大学の研究員、そして第2次世界大戦後は一時期MI5職員(*1)として活動しながら、二重スパイとしてソ連に情報を提供していた。モームと同様彼も、立場は違うけれど(モームは二重スパイではなかった)、男性間の同性愛行為が禁止されていたイギリスを生きた同性愛者だ。

ケンブリッジの町にて 撮影=ミヤギフトシ

 ケンブリッジに着いたものの、夏休み中だったこともあり街は観光客であふれ、大学の案内役をしたりケム川でパントを操る若者以外、学生の姿は少ない。川下りは気持ち良さそうだったけれどひとりで乗るのも気が引けて、橋の上から器用に長棒で船を操る若者たちを眺めていた。

 E・M・フォースターの小説『モーリス』(*2)も、ケンブリッジを舞台のひとつにしている。ともにケンブリッジ大学の学生である主人公モーリスとクライヴは、惹かれ合いながらも他者の目を気にして反発する。ある夜、クライヴの態度に怒り、それでも彼への思いを抑えることができず、モーリスはキングス・カレッジの校庭に立ち尽くしクライヴの部屋の窓を眺め続ける。そして夜明けごろ、ついに窓からクライヴの部屋に入る。私が訪れたときは、ケンブリッジ大学の窓はほとんど閉ざされていて、外の賑わいとは対象的に、建物の中は静まり返っているようだった。かつてここで行われていた若者たちの(時に秘密の)交流を想像するには、8月の風景は明るすぎた。ひと気のない場所を選んで、持ってきたハーフサイズのカメラで風景を記録していった。

キングス・カレッジのキャンパス 撮影=ミヤギフトシ

 その『モーリス』の窓、そしてケンブリッジで見た窓を手がかりに、私は18年9月に「Closed Windows」(XYZcollective、東京)という展覧会を企画した。それまで作品を通して境界線について考えることが多かった。こちら側とあちら側があり、双方がなんらかのかたちで交わる、もしくは境界線が揺らぐ可能性を探ってきた。「Closed Windows」では、交わりもなく閉ざされた空間で行われる行為に焦点を当てたかった。なんらかの理由でこちら側に出てくることができないのかもしれないし、出てくる必要すらないささやかなことかもしれない。そんなことを考えながら、キングス・カレッジのキャンパスで撮影した写真を展覧会のDMに使った。

 招待制のエリートサークル・ケンブリッジ使徒会に属していたブラントは、教員デイディ・ライランズを介するかたちでブルームズベリー・グループと交流を持っていた。同グループは画家のヴァネッサ・ベルや妹のヴァージニア・ウルフ、その夫レナード・ウルフらの知識人や芸術家らの集まりで、ロンドンのブルームズベリー地区にある邸宅のほか、ケンブリッジも拠点のひとつとなり、学生や教員らも集うようになった。フォースターもグループの一員で、使徒会出身だった。

 ヴァネッサ・ベルの息子ジュリアンは一時期ブラントの恋人で、母ヴァネッサに、彼との恋にまつわる驚くほどにオープンで情熱的な手紙を送っている。ブルームズベリー・グループのメンバーは、現代から見ても性や結婚に対して開放的だったようだ。また、使徒会も同性愛についておおらかだった。法で禁じられていたとはいえ、閉じたサークルの中で、若者たちはそれなりに自由に恋愛をしていた。本書の中でも、ケンブリッジ時代のブラントは数人の若者と恋愛関係を持っていた。

キングス・カレッジの一角 撮影=ミヤギフトシ

 2002年公開の映画『めぐりあう時間たち』には、1923年『ダロウェイ夫人』執筆中のヴァージニアと彼女を訪ねるヴァネッサが描かれている。療養のためレナードとともにロンドンを離れ、郊外のリッチモンドに移り住み、出版社ホガース・プレスを立ち上げたものの、ヴァージニアは都会生活が恋しくてたまらない。ヴァネッサと子どもたちに完璧な午後を過ごしてもらいたいと思いつつ、『ダロウェイ夫人』のことで心ここにあらずのヴァージニア。「ヒロインを殺すつもりだったけど気が変わった。代わりにほかの誰かが死なないといけない……」(*3)と子どもたちの前で呟くヴァージニアに、呆れたように驚いてみせるヴァネッサ。ジュリアンや弟のクウェンティンに急かされ早めに帰ろうとするヴァネッサを引き止めるすべもなく、ヴァージニアは懇願するように彼女の唇にキスをする。

 ケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』(西山敦子訳、CIP BOOKS、2018)にも、ブルームズベリー・グループの面々が登場する。『ヒロインズ』の主人公は、夫に小説や詩の題材として利用され、時に書くことを禁じられた女性たちの奪われた声に耳を傾けようとする。本書によれば、ヴァージニア・ウルフがどことなく自らを重ねながらも遠ざけようとした女性がいた。ヴィヴィアン・エリオット、T・S・エリオットの最初の妻だ。ブルームズベリー・グループの女性たちからも疎まれていたらしい彼女は、書くことを封じられ、グループからも締め出される。彼女の精神は不安定になり、拒食症になってしまう。エリオットはヴィヴィアンを精神病院に入れ、1947年に彼女はそこで命を落とす。『ヒロインズ』を読んでから、伝記や物語を読むたびに、その向こうにあったかもしれない女性の声について想像するようになった。『アントニー・ブラント伝』にも、後述するが彼を取り巻く女性たちが登場する。

 ケンブリッジの研究員となったブラントは、すでにソ連側と関係を持ち始めていた元ケンブリッジ学生で使徒会メンバーだったガイ・バージェス(彼もゲイだった)からの誘いを受けスパイ活動に関わるようになる。ケンブリッジ使徒会出身の彼らが二重スパイになった理由は複層的だ。貧困対策の遅れによる政府への怒りや不信、資本主義に対する幻滅、社会主義への傾倒。また、使徒会の閉じた関係性やメンバー間の強い結びつきも影響を与えた。つい、同性愛とスパイ、二重の秘密……などドラマティックに考えてしまうが、同性愛者であったことは、彼らがスパイになった数ある要因のひとつに過ぎないのだろう。

キングス・カレッジにて 撮影=ミヤギフトシ

 その後、第2次世界大戦が勃発し、言語に長けたブラントは情報部に志願する。敵地情報部員としてヨーロッパに滞在、帰国後はMI5で働き始める。その間、得た情報をソ連側に流し続けた。ケンブリッジ・ファイブがソ連側に流した情報には、アラン・チューリングらによって解読されたエニグマの暗号も含んだ。情報を流していたのはケアンクロスだ。映画『イミテーション・ゲーム』(2015)が描くように、チューリングはのちに同性愛者であることが発覚し、1年にわたりホルモンを投与され、1954年に自死する。ケアンクロスはアメリカに移住し、大学職員を経て国連に職を得た。

 ブラントはMI5に勤務しながらも美術史研究を続け、1950年にはスパイ活動から手を引く。コートールド美術研究所の所長に就任し、美術史家として輝かしいキャリアを築いていく。王室とも仕事をするなど活動の幅を広げ、ナイトの称号を得る。どこか冷徹さすら感じる優雅な立ち振る舞いは、人々の目を引いた。

 コートールド美術研究所には、ブラントを取り囲む女性たちが3人いた。皆ブラントに惹かれていて、本書の言葉を借りれば「婚期を逸しかけて」おり、ブラントがゲイであることを程度の差はあれ知っていた。そのうちのひとりに、フィービー・プールがいた。プールはオックスフォード大学卒で画家ウィリアム・コールドストリームの元恋人だった。うつ病に悩まされる彼女はカーディガンの入ったバッグを引きずりながら研究所の構内をうろつき、図書館にこもった。ブラントは当初疎ましく思いつつもプールをコートールドで引き受ける。彼女はいくつかの著書を手がけ、ブラントとともにピカソ論も著した。

クレア・カレッジ 撮影=ミヤギフトシ

 ケンブリッジ時代にブラントがスカウトしたスパイの中に、マイケル・ストレートというアメリカ人留学生がいた。ホイットニー家の一員でもある彼は、ソ連に情報を提供したケンブリッジスパイのうち唯一のアメリカ人で、使徒会のメンバーだった。卒業後アメリカに帰国、付かず離れずの中途半端な状態でしばらくスパイ活動を続けていた。

 アメリカに目を移すと、1950年代、FBI初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーが絶大な力を手にするようになっていた。『Jエドガー』でレオナルド・ディカプリオが演じた人物だ。当時マッカーシーの主任顧問だったのがロイ・コーンで、フーヴァーが口利きをしたことで若いコーンは異例の昇進をした。マッカーシズムによる赤狩りと、ラヴェンダー・スケアと呼ばれた同性愛者狩りが人々を萎縮させた。彼らは、同性愛者は赤であるとして密告を促し多くの政府職員を退職に追い込んだ(*4)。コーンは自身がゲイであることを認めず、同性愛者の弾圧を進めた。彼は1986年、エイズによる合併症でこの世を去る。その頃のコーンは、テレビ映画化もされている舞台『エンジェルス・イン・アメリカ』が描いている。

ケンブリッジ、ミッドサマー・コモン 撮影=ミヤギフトシ

 やがてマッカーシズムが終焉を迎え、時局の変化を読んだストレートは1964年、かつてソ連のスパイだったことを自白する。それによってブラントの過去も英国側にも伝わる。もっとも、MI5はバージェスがソ連に亡命した1951年からブラントに疑いの目を向け、彼がスパイであると確信していたが、決定的な証拠もないままだった。そのうちにブラントは美術史家としてキャリアを積み、王室と仕事をするまでになる。今さら公にしても、10年以上放置していたという組織の無能さを提示するだけだった。王室の面子を潰すことにもなりかねない。MI5は政府に掛け合い、自白と捜査協力を条件に、免責特権をブラントに与えた。コートールドでブラントは冷静に振る舞い続けたが、実際は精神安定剤と酒に頼る生活だった。

編集部

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