第1章「マリー・アントワネット・スタイルの源泉 1770-1793」
本展は3章構成。第1章「マリー・アントワネット・スタイルの源泉 1770-1793」では、アントワネットが宮廷の旧来の慣習に挑みながら、新たな視点を持ち込んでファッションや織物産業に大きな影響を与えたその功績に迫る。


本章では、1760〜70年代にフランスの宮廷文化のなかで使用されていた、ドミノ(舞踏会用の衣装)、ボディス(装身具)、ローブ、靴などが展示され、アントワネットが生きた時代の宮廷文化の一端を知ることができる。とくにアントワネットの時代のスタイルとして象徴的なものが前開きのガウン、ストマッカー(胸当て)、パニエで左右を大きく広げたペチコートの3つの要素で構成されたローブ・ア・ラ・フランセーズで、後世の衣装デザインにも影響を与えた。宝飾も宮廷文化においては重要なものであり、アントワネットはとくにダイヤモンドを全身に身に着けていた。エグレット、ネックレス、ドレスの装飾にいたるまで、羽やボウの形状を中心に様々な装飾具がつくられた。

「モード商」と呼ばれた帽子職人やファッション商たちが次々に新たなスタイルを提案したこの時代においては、衣服のみならず帽子や扇子といった小物や独創的な髪型も、貴族たちのスタイルをつくる重要な要素であった。会場に展示されている、1783年に原作がつくられた作者不詳のアントワネットの胸像を見れば、髪、アクセサリー、小物などの工夫にあふれた着こなしを感じられ、彼女がモードを体現する存在であったことが伝わってくる。

生活の空間においてもアントワネットは自身の美意識を突き詰めていった。彼女はヴェルサイユ宮殿の敷地内につくられた離宮「プチ・トリアノン」 を自身の好みを反映した空間につくり変え、ヨーロッパ中で評判を得ることになる。化粧室で使用していたという肘掛け椅子(1788)のクッションには小花柄があしらわれ、白や紫を配した軽やかな色合いなどから、彼女の趣向がよく伝わってくる。


このように、アントワネットは時代の流行をつくり出すアイコンだったが、同時に新しい時代の母親でもあった。当時、ジャン=ジャック・ルソー(1712〜78)による啓蒙思想が浸透し、子育てに「愛情」が必要という考えが取り入れられるようになる。アントワネットも献身的に子育てをし、フランス王家で初めて母乳育児を実践した。本展ではアントワネットに贈られた出産を祝う扇子や皿などが展示されているが、そこにも親子の愛情や母乳といったアイコンが表現されている。


しかし、1780年代に入るとアントワネットの国民からの人気は陰りを見せ始める。贅沢で乱れた生活をしている、という噂が広まり、風刺画に描かれたり、批判的な演劇の登場人物にされるといったかたちで評価が低下し、やがて国家の災いの元凶とまでされるようになった。1789年にフランス革命が起こり、91年にパリからの脱出を試みたもの、結局は捕われてしまい93年にギロチン刑に処せられた。会場には、アントワネットの首をはねたものとされる革命に用いられたギロチン刃や、処刑日に型取りされたというデスマスクの蝋製胸像の写真などが並ぶ。



















