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「田中信太郎──意味から遠く離れて」(世田谷美術館)開催レポート。意味を削ぎ落とす独自の哲学とは【2/4ページ】

70年代──ミニマル・アートへ

 田中は1960年代、篠原有司男との出会いを機にネオ・ダダへ参加する。当時は廃物を用いた作品を発表していたが、現存するものはほとんどないという。そのため本展では、主に70年代以降の作品を時系列に沿って紹介していく構成となる。

 「廃物」を用いたネオ・ダダでの活動後、70年代頃からミニマル・アートを思わせる作品を手がけはじめる。その背景には、素材である「廃物」自体が意味を持ちすぎてしまうことへの反発があった。以降、田中は一貫してシンプルな造形を追求。作者の手跡や作業の形跡を消し去り、物体が発する意味や言葉に頼らない作品制作に専念するようになる。

田中信太郎《無題D》(1972)金属粉、アクリル樹脂(2点1組) 各4×160×110cm 田中信太郎アトリエ

 会場では、72年の第36回ヴェネチア・ビエンナーレ出品作《無題D》(1972)が紹介されている。アクリルのなかに金属粉が入れられた本作は、ほかの《無題》9点と組み合わされることで《Mort+Coagulationによるインスタレーション》を成す。

田中信太郎《風ーピアニッシモ》(1970)カーボン、キャンバス(3点1組) 各182×227.6cm 田中信太郎アトリエ

 《風ーピアニッシモ》(1970)は、横幅約2.3メートルに及ぶ大型の平面作品だ。《無題D》と同様に金属粉(本作ではカーボン)が用いられている。本作は米・ルイジアナ美術館で開催された「日本美術展」(1974年9月7日〜11月3日)に出展されたが、これまで国内で紹介された記録はない。田中は「一度海外で発表した作品は、国内では展示しない」と決めていたふしがあるという。既視感のあるものを発表したくないという強い意志と、誰も見たことがないものを追い求めるスタンスは、ネオ・ダダ時代から変わることはなかった。

 独自の哲学や思想を確立していた田中は、作品について語ることはなかったが、その思索の深さを物語る詩的な言葉をいくつも残している。会場ではそのうちのいくつかを紹介しており、田中の創作姿勢を紐解く一助となるだろう。たとえば、1972年の私家版『田中信太郎』には、「視覚を眼で考える」という言葉が書かれている。物体が発する言葉に引っ張られず、ただひたすらに対象を「見る」ことのみを探求するという姿勢を象徴するひとことだ。

編集部