80年代──闘病前後
続いて80年代頃の作品が展開されている。《鉛の胎児》(1979)と《銅の家》(1979)は、第8回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)への出品作《72kgのQuartetto》の一部だ。どちらも当時の田中の体重と同じ72キロでつくられている。言葉や数字から意味が付与されることを避ける田中は、あえて数値を自身の体重と一致させることで、数字にそれ以上の意味を持たせないようにした。


80年には、ミニマル・アートの境地とも言える作品《同体積:白》《同体積:黒》《同体積: 銅》(すべて1980)を東京画廊と村松画廊で同時開催した個展(1980年3月24日〜4月5日)にて発表。村松画廊に展示された白と黒の作品には、日常的でも伝統的な彫刻素材でもない工業用素材である人造石材が用いられている。この素材は、田中の盟友であったデザイナー・倉俣史朗も自身の作品で用いていたものだ。67年の出会いから91年に倉俣が逝去するまで続いた2人の深い親交の一端に触れられる点も、本展の見どころのひとつだろう。

その後田中は、83年に耳下腺癌が発覚し手術を行う。一度制作の一線を退くが、85年の「第3回東京画廊ヒューマン・ドキュメンツ’84 / ’85」で《風景は垂直にやってくる》(1985)を病後初発表し、復帰。キャンバスを支持体とした平面作品と銅でできた立体を組み合わせた本作は、いままでの作風とは大きく異なっていた。複数の物体を組み合わせることで空間が生まれるが、一つひとつの関係性に意味はないという。しかし、重力に任せて絵具を垂らす手法や、銅板を屋外で自然に腐食させる制作方法からは、作者の手跡を消し去ろうとする田中の一貫した姿勢を読み取ることができる。



















