「霧のまち」──「ろう者」「聴者」も存在しないユートピア
公演は前半・後半の二部構成で、上演時間はおよそ3時間半に及ぶ大作であった。前半では、音という概念が存在しない「霧のまち」に、主人公・チャトが迷い込むところから物語が始まる。最初は住人たちから訝しげに見られていたチャトだが、身振り手振りや表情、空間を用いた身体的なコミュニケーションを通じて、少しずつ相手の言語や文化を理解し、やがて、霧のまちの住人である火の長、風の長、水の長の3人と親交を深めていく。
前半で描かれる「霧のまち」は、「ろう者」「聴者」という区分そのものが存在しないユートピアとして設定されている。しかし、聴文化のなかで生きてきた筆者の視点からは、そこはやはり「ろう者の世界」として立ち上がって見えた。1時間以上にわたって無音の時間が続き、正直なところ、物語を十分に理解できたとは言い難い。いっぽうで、観客の半分以上を占めていた、ろう文化を背景に持つ人々にとっては、言葉や感情、さらには音楽さえもが、異なるかたちで豊かに立ち上がっていたのかもしれない。



「百層」──音の文化が発達した巨大都市
約20分の休憩を挟み、後半が始まる。前半から2年後、チャトは自身の故郷であり、音の文化が発達した都市「百層」へと戻り、霧のまちの3人を案内する。人口過密による騒音問題が深刻化した百層では、極度の静寂が求められ、住民同士が互いを監視しあういっぽう、音を発する自由を訴えるデモも起きている。都市は華やかでありながら、どこか息苦しさを孕んでいた。
やがて縁あって、百層で開催されるコンサートにチャトと霧のまちの3人は参加し、百層の住人たちとの交流を深めていく。しかしその過程で、音の文化を前提とする百層の住人と、音という概念を持たない霧のまちの住人とのあいだに、コミュニケーションの齟齬が生じ始める。霧のまちの3人のなかでも、百層の文化に適応できる者と、そうでない者に分かれ、風の長はチャトとともに百層で生きる道を選び、残るふたりは霧のまちへ戻る決断をする。


言うまでもなく、「百層」は「聴者の世界」を象徴している。百層の住人たちは、霧のまちの住人のコミュニケーションに関心を示し、理解しようと努める。しかしそのいっぽうで、無意識のうちに聴者側の価値観やイメージを押し付けてしまう場面も描かれていた。
後半は聴者の世界が舞台であるため、音や音声言語に満ちており、筆者は難なく物語を追うことができた。おそらく、ろう文化を背景に持つ鑑賞者の多くは、前半で筆者が感じた戸惑いや置いていかれる感覚を、ここで体験していたのではないだろうか。

聴文化とろう文化の狭間に立たされて
聴文化のなかで生活してきた筆者は、これまで手話で会話を行う人々と日常的に交わる経験が決して多くなかった。しかし本公演では、ロビーや客席において、音声だけでなく、手話や表情、身体の動きを用いたコミュニケーションが自然に行われていた。その光景は新鮮であると同時に、自身がいかに限られた文化圏のなかで世界をとらえてきたのかを強く意識させるものだった。
また、聴者の立場から本作を通じて強く感じたのは、「既存の社会システムは、聴者の視点を前提につくられている」という事実である。私たちは百層の住人と似た世界に生き、知らず知らずのうちに、彼らと同じ振る舞いをしているのかもしれない。本作は、そのことに気づかされるきっかけを与えてくれた。
『黙るな 動け 呼吸しろ』は、ろう文化と聴文化の違いを示す作品ではない。むしろ、その差異によって生じる戸惑い、そして無自覚な押し付けを、観客自身の身体を通して体験させる舞台であった。ともに理解するとはどういうことか。一筋縄ではいかない、あえて答えを提示しない部分に、本作の意図を強く感じた。



















