公演後、総合監修を務めた日比野と、構成・演出を務めた牧原にそれぞれコメントを求めた。以下、聴者側の視点として日比野の、そしてろう者側の視点として牧原のコメントを掲載する。
日比野克彦コメント
──総合監修として、とくにどのような点を意識して本作をつくりあげましたか?
日比野克彦(以下、日比野) まず、ろうは障害ではありません。そこには「聞く」という概念を前提としない、独自のろう文化があります。そこをどう伝えていくかという点に、とくに注力しました。それは「音を視覚として伝える」といったことや、「情報保障」の話ではありません。互いの文化の違いを認識しあうことこそが、本作の価値だと考えています。
──公演を終えてみていかがでしたか?
日比野 役者にも観客にも、ろう者と聴者の双方がいました。構成としては、前半がろう者視点、後半が聴者視点の内容だったと思います。前半と後半で、お互いに話を理解できず、ついていけない感覚があったのではないでしょうか。観客の皆さんの反応、それこそが現実なのです。自分たちの存在に気づいてもらえないろう者の立場を、聴者側が実感する機会になったのではないかと思います。
──今年2月に実施された記者発表では、本作の「再演の仕組み」について検討されていると伺いました。こちらの展望についても教えてください。
日比野 聴文化を前提とした作品であれば、台本があれば再演できますが、本作はそうはいきません。「再現できるものをどうつくるか」という目標が、企画当初からありました。牧原さんからは、手話言語を台本として映像に残すといったアイデアもいただいています。
本作をつくり上げるうえで重要だったのは、台本だけではありません。そこに至るまでに行われたワークショップや、数多くのコミュニケーションの積み重ねがあります。このプロセス自体にも価値があるので、それも含めて再現できたらと考えています。
また、今回舞台作品を製作するなかで、裏方にろう者が少ないという課題も見えてきました。今後は、そうした人材の育成についても考えていく必要があるかもしれません。
牧原依里コメント
──今回の公演をつくり上げるにあたって、こだわった部分や困難であった部分があれば教えてください。
牧原依里(以下、牧原) ろうコミュニティから生まれる「オンガク」の概念を、より具現化したいと考えていました。今回、主催側がその環境を丁寧に整えてくださったことで、これまでより一歩踏み込むことができたと感じています。「オンガクとは何か」をろう者同士で徹底的に考え、実践する時間を確保できたことにより、ろう芸術のひとつと言える豊穣な文化的成果が生まれました。舞台までに必ず発見かつ具現化したいと思っていた要素でもあったため、その点は大きな収穫でした。
いっぽうで、聴者とろう者という異なる身体性と文化をもつ人々が、2年半のプロセスを通してどう歩み寄っていくのか。段取りや意識の共有方法が異なる分、擦り合わせには難しさもありました。しかし、これはどの現場でも起こりうる当然のプロセスだと私は受け止めており、決してネガティブなものではありませんでした。
──全体の構成や演出を組み立てていくうえで、どのような意見を提案したり交わしたりしましたか。
牧原 構成は主に私、長島さん、雫境さんの3名を中心に組み上げ、そのうえで島地さん、中村さん、メインキャストの皆さんの意見を取り入れながら、少しずつ「霧のまち」と「百層」の世界観をかたちづくっていきました。「霧のまち」は、聴者が持つ概念とはまったく異なる、「音」も「ろう者」「聴者」も存在しないユートピアとして設定しました。対して「百層」は、1億人が暮らす巨大なタワーマンションとして、聴者がどのように暮らし、そのなかに聴覚障害者がどう位置づけられているのか、といった設定を詰めていきました。そもそもの前提が聴者とろう者で大きく異なるため、その共有や、聴文化/ろう文化とはなにか、ろう者と聴者が同じ場所にいることの意味とはなにかについて、議論する時間も多く持ちました。
カーテンコール後のフィナーレについては初期段階から決めていましたが、「どのようなかたちで終えるのか」という点では多くの意見が交わされました。最終的なかたちに落ち着くまでに様々な議論がありましたが、思い返すとすべてがあのフィナーレに向けた前置きだったように感じています。
──総勢50名近くの大勢の出演者と、どのようにコミュニケーションをとってきましたか。ろう者、聴者で異なるようであればそれぞれ心掛けられたことを教えてください。
牧原 今回の構成上、ろうコミュニティと聴コミュニティのチームがはっきり分かれていたこともあり、私は意図的に聴者側の演出にはあまり口を出さないようにしていました。例外として、「百層」パートでのろう者出演者に関する部分のみ関わり、SF的設定とはいえ、現実のプロセスを投影した部分でもあるため、その点については必要に応じて意見を述べることもありました。
物語は「初めて異なる文化・身体性を持つ相手と遭遇する」という設定である以上、ろう者の出演者には、音の概念を知らず、音声言語によるコミュニケーションを想像することもできない存在として反応してほしいと伝え、稽古のなかで無意識に表れる“音/音声言語を知っている”反応を丁寧に修正していく作業も行いました。「霧のまち」においては「オンガクとはなにか」を出演者とともに考え続け、実践する時間を重ねました。それが結果的に、一人ひとりが自分自身とろう文化と向き合うきっかけになったように思います。
──公演を終えてみて、気づいたことや、ご感想などがあれば教えてください。
牧原 私が想像していた以上に、この舞台に関わった多くの方々が、このプロセスに対して言語化しきれない様々な思いを抱いていたことを知りました。
10月頃、私は全員に、牧原個人の意見として、「聴者とろう者は永遠にわかり合えない」と伝えたのですが、その言葉に衝撃を受けた方も多かったかもしれません。しかし私は、自分の気持ちに嘘をつきたくありませんでした。「わかり合えない」という事実は絶望ではなく、その現実を直視し、そこからどう共生していくのかを考えることが重要だと思っています。そうした意識の流れが、このプロジェクト全体に生まれていたように感じます。稽古場でも舞台上でもディスコミュニケーションはつねに起きていました。その現象をあえて観客にも共有させたこの実験を、よく主催側が容認してくれたなと、改めて思いますし、またいい意味なのか悪い意味なのかわかりませんが、私自身も、聴文化に以前より敏感になり、聴者の行動に意識が向くようになりました。
──「再演」の仕組みについて、現時点でどのように検討されていますか。
牧原 台本は日本語と日本手話で残す方法を検討してします。ただ、それだけでは不十分で、再演に向けてのある程度のスキーム構築が必要になると感じています。まず、ろう者チームと聴者チームがそれぞれ集まったうえで、ろう者チームには私たちが「オンガク」の概念を共有し、一緒に経験するプロセスを通して、ろう者としてのアイデンティティやろう文化について考えていく。いっぽうで聴者チームは、自分が所属するコミュニティや聴者としての身体性、異なる文化や身体性を持つ相手との関係性について考えていく。互いに自分と他者、コミュニティについて考える。そうしたプロセスを再びたどりながら再演を行うことこそが、この作品の「再演」に込められる意味になるのではないかなと感じています。



















