前述したいくつかの力強いシークエンスを終えた後、ラストでは水の柱が出現し、その中を煌めく光が二重螺旋を描きながら立ち昇っていく。ひとりの女性ダンサー(リ・カフア)がその輝きを慈しみ、自身の体内に取り込もうとするかのような動きを見せる。するといつのまにか背後に現れた黒人の男性ダンサー(ヴィンソン・フレイリー)が、讃美歌として歌い継がれるデューク・エリントンの楽曲「Come Sunday」を見事にアンプラグドで歌い上げた。
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本作に至るまでの過去3作品でのジャレと名和による演出は、ダンサーの頭部を含む肉体をたがいの身体やなんらかの物質によって覆い隠すようなものが多かった。性別や個性を剥ぎ取られ、人でない「態」そのものとなった身体の変容は、匿名性の高い古代の土器や祭祀の仮面、あるいは生命を宿しながらも「顔」の見えない臓器や器官を思わせるものだった。
本作《MIRAGE [transitory]》でも、中盤でメタリックな皮膜に覆われたダンサーたちはたちどころに「顔」の見えない存在と化し、人間と非人間、意識と無意識、精神と肉体のあわいを惑い続ける。だが、2人のダンサーが光の啓示を抱きしめ、生の歌声を解き放つラストを迎えたとき、その佇まいは「顔」の見える生身の人間性を取り戻したように見えた。ジャレと名和が結末にこのシーンを選んだことにより、これまでのどこかディストピアめいた禍々しい世界観を超え、深く安寧を感じさせる作品となったことが鮮烈だった。《MIRAGE [transitory]》は、彼らがそれぞれの関心領域で深化させてきた考察の結節点を見せてくれた。他都市での再演が待ち望まれる作品である。