現実と対峙しつつ自らの内面を深く見つめ、そこから浮かび上がる人間のいる風景を一貫して描いた画家・麻生三郎(1913〜2000)。その生誕110年にあたる今年、世田谷美術館で始まったのが大規模回顧展「麻生三郎展 三軒茶屋の頃、そしてベン・シャーン」だ。会期は6月18日まで。公立美術館での麻生三郎展は約10年ぶりとなる。
麻生は東京生まれ。太平洋美術学校で学び、1938年に渡仏するも、戦争の影響で帰国。その後は豊島区長崎の「アトリエ村」に住み、「美術文化協会」の創立に参加した。戦時下では、松本竣介らとともに自由な表現を求めて8人の画家による「新人画会」を結成。戦後は「自由美術家協会」に合流する。
戦争末期の空襲で豊島区長崎のアトリエを失った麻生は、48年に世田谷区三軒茶屋にアトリエを構え、64年以降は美術団体を離れて無所属として活動。三軒茶屋で道路や地下鉄工事が相次ぎ環境悪化に苦しんだ麻生は、72年に川崎市多摩区生田に移り、生涯を過ごした。
本展は、麻生が35〜59歳のあいだを過ごした三軒茶屋時代に着目する初の試みだ。油彩や素描あわせて約110点に上る作品をはじめ、野間宏、椎名麟三など文学者たちとの交流を示す挿絵や装丁の仕事も集め、時代と対峙した、創作の軌跡をたどるものとなっている。
展示は「アンゴラ兎と家鴨のいる画室」「赤い空」「死者と燃える人」「生田へ」の4章で構成。時系列での展示となる。
三軒茶屋に移り住んだ当初、麻生は妻や娘を繰り返し描いていたという。「アンゴラ兎と家鴨のいる画室」では、そうした親密な空気を纏う作品が並ぶ。絵画だけだなく、土門拳が写した麻生とその家族の写真にも注目してほしい。
しかし50年代半ばに画風は変化を遂げ、麻生は《赤い空》と題した作品を繰り返し描くようになる。時代はまさに日本の高度経済成長期(1955〜73)であり、麻生の目はアトリエの中から外、街へと向けられていった。《赤い空》に描かれたのは、まさにそうした戦後復興期の都内の風景だ。濃い赤で覆われたキャンパスは、蠢く都市の血脈を感じさせる。
麻生が三軒茶屋で過ごした時期は、安保闘争やベトナム戦争といった社会問題に揺れ動いていた時代。60年代、麻生はそうした社会の動きに呼応するように作品を描いている。画面の人物像は解体され、その姿を確認することは難しい。麻生が同時代を覆っていた生と死の問題に向き合っていた証拠でもあるだろう。なお「死者と燃える人」セクションには、生涯4点のみ手がけた彫刻(麻生はそれらを「立体デッサン」と呼んだ)のうち、2点も絵画とあわせて展示されている。
最終章の「生田へ」では、60年代後半から麻生が1972年に川崎市多摩区生田へと転居するまでの作品が並ぶ。麻生が生田へ転居した背景には、首都高速道路や地下鉄の建設工事による制作環境の悪化があった。展示の最後を飾る《としより》は、麻生が工事現場の片隅の公園でベンチに座る老人を見たことをもとに描かれたもので、麻生が三軒茶屋を離れる決心をしたきっかけのひとつとなったという。
これと並び展示されている連作「ある群像」も必見だ。激化するベトナム戦争への思いを込めて描いたこれらの作品。60年代から続いた人間像を解体する表現のピークと評されるものだ。
戦後、急激な経済成長とともに様々な社会問題を孕んでいた時代に、絵を描くことで向き合い続けた麻生三郎。一貫して人間を見つめ続けた画家の作品群に、いまあらためて向き合ってみてほしい。
なお本展では、麻生による挿画・装丁の仕事も紹介。戦後に手がけた数々の仕事のなかから、実物書籍や挿画原画が並ぶ。麻生が夜の時間に制作していたというこれらの作品も、1点1点じっくり鑑賞してほしい。
また麻生が強く惹かれ、自ら作品を蒐集した20世紀アメリカを代表する社会派の画家ベン・シャーン(1898~1969)の作品群も展示。ベン・シャーンの集大成といわれる版画集『一行の詩のためには...:リルケ「マルテの手記」より』全24点を含む、麻生旧蔵の作品にも要注目だ。