──「チームラボボーダレス」が麻布台ヒルズで移転オープンします。お台場からの移転に際して新作が加わりますが、まずは大前提となる「ボーダレス」のコンセプトから聞かせてください。
この世のすべて、生命はとくに、無限に連続し合っているもののなかに存在します。人間である自分は密閉された箱に入ったら死んでしまって、時間が経ったら溶けて姿形すら保てない。なぜかというと、自らの構造すら持っていないから。毎日何かを食べて、排泄して、という流れのなかに存在しているわけです。すべてがそのような連続性のなかに存在しているのだけど、認識上、切り取ってしまう。例えば本来、地球と宇宙には境界がなくて連続しているけど、人はまるで独立した存在のように勘違いしてしまう。美術館に行ったときに「《ひまわり》が一番良かった!」みたいに思うのは、それぞれを独立したものと認識して美の対象ととらえているから。
でも僕は、連続している何かが美しいと思うし、連続していることそのものに美の対象を広げたいと思っています。世界が連続していることを認識して、そこに自分が一体化するような感覚。それを感じられれば、ある種の幸福感が生まれて、世界そのものを肯定できるような体験が得られるはずだから。その体験を生み出したいと思ってつくったのがチームラボボーダレスです。そのコンセプトは、お台場から麻布台に移っても変わりません。
──作品への没入感が生まれ、作品同士や作品と来場者との境界を取り除くことの前提として、「ボーダレス」にはより広い意味合いが込められているのですね。
2001年にチームラボを立ち上げたのだけど、レンズと一点透視図法、要するに遠近法でとらえるのとは異なる方法で世界を認識する論理構造を模索したいと思ったのが始まりでした。そこから作品の制作はずっとつながっています。
──レンズと一点透視図法というと、ルネサンス期の話です。
そう。レンズを通してみた世界というのは、レンズの論理構造で三次元空間を平面化した世界です。要するに、見る側の視点が固定されるため身体を失って、画面が境界面となり、本来であれば身体と連続する空間が境界面の向こう側に出現する。境界面の向こう側だから、その世界には、触れることができない。自分の身体とは切り離された世界だとも言えます。でも僕がつくりたいのは、身体を失わず、歩きながら見れ、画面が境界面とならず、鑑賞者が世界に触れられ、人々が存在することによって変化し続ける世界。
──レンズやカメラ・オブスクラの理論で世界をとらえ、描いた、ルネサンス以降の画家が残したものとは異なる絵画を目指したということですね。
必要だったのは、画面が認知上の境界とならず、身体と映像が曖昧に連続し、人々が映像に触れられ、視点が自由に移動できるため身体的知覚ができ、映像を自由に歩きながら見られ、人々がおのおのに映像のどこにでも近づくこともできるという空間の平面化の論理です。
論理構造がなければ、人々によって変化する時間軸をもった絵画にはならない。仮に天才的なアーティストが論理構造を思考することなく手で描き、境界面が生まれない絵画を完成させたとしても、それが鑑賞者の存在によって変化し続けることはできない。でも、平面化の論理があれば、平面化する作品空間は時間を持ち、動的な変化を表現できるため、人々の存在によって動的に変化する絵画を描くことができるからです。そしてそこで表現された世界には触れることができて、視点が固定されることなく身体で歩きながら体験していく、無限に広がる身体的な空間芸術をつくることができると思ったのです。
その考えに基づき、そのような論理を模索し、見つけ、その論理で動的な絵画をつくり、一体となるような空間芸術を目指したのがチームラボの始まりです。そして、チームラボボーダレスでは、過去の作品も新作も作品群が、重なりあったり、移動しあったり、連続し関係しあうするひとつの世界をつくるようなことを目指しました。
──チームラボボーダレスのエントランスでは、ロゴがペイントされていて、通路の中心に立って写真に撮るとロゴが空間に正体します。しかし、同じ場所で肉眼で見ても、浮き上がらりません。肉眼でとらえた世界と、レンズを通して見た世界の違いが端的に示されているように感じました。意図をお聞かせください。