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再整備される世田谷区民会館・区庁舎。そこに込められた戦後精神の行方を探る

モダニズム建築の大家として知られる前川國男が設計した世田谷区庁舎と区民会館。半世紀以上の歴史を持つこの建物が、機能向上を目的に再整備される。この再整備を前に、京都工芸繊維大学教授で近代建築史が専門の松隈洋がこの建築に込められた精神を振り返る。

文・写真=松隈洋(京都工芸繊維大学教授)

世田谷区庁舎

 新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大という緊急事態に全世界が蔽われる中、ごく身近な場所で60年にわたって静かな時を重ねてきた東京世田谷の小さな公共空間がその姿を大きく変えようとしている。保存か建て替えかをめぐって15年以上も議論が続けられてきたが、いよいよこの2020年度から一部を残して全面的に改築されることになり、近く建設工事が始まるという。そんな土壇場の状況ではあるけれど、ここでは、その建物、世田谷区民会館・区庁舎(1959・60年)の歩んできた歴史とそこに込められていたものについて書き留めておきたい。というのも、それはそのまま、およそ100年前に遠くヨーロッパで始まり、世界的な潮流として展開されたモダニズム建築が切り拓いた思想と方法を再確認し、戦争を挟んで1950年代から本格的に始まった日本における試みと、そこに託された建築における戦後精神とは何か、を考えることにつながると思うからである。

建設までの経緯

 この建物は、高度経済成長の始まろうとする1957年の4月から6月にかけて実施された東京都内の区としては初めてとなる指名コンペ、「世田谷区民会館及新区庁舎競技設計」によって、前川國男(1905~86)の案が一等に選ばれて建設された。指名を受けたのは、日建設計、佐藤武夫、山下寿郎、前川國男の4者であり、審査には、建築の専門家として、今井兼次、岸田日出刀、武藤清、谷口吉郎の4名が加わっていた。じつは、この指名コンペという方法自体にも、戦前から待望されてきた自由な条件で創造的な提案を求める設計競技という制度をめぐる長い闘いの前史があった。

 戦前のコンペは、あらかじめ決められていた平面図に、「日本趣味」「東洋趣味」といった様式規定の下、外観のデザインだけを求める不自由なものに過ぎなかった。また、その多くが「懸賞設計競技」と呼ばれていたように、たんなるアイデアだけを募るものであり、当選者には著作権も認められていなかったのである。こうした旧来の制度に敢然と挑んだのが、ル・コルビュジエのパリのアトリエに2年間学び、1930年に日本に帰国した前川國男であり、翌1931年に応募した東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の公開コンペにおいて、落選覚悟で、一から平面図をつくり直し、様式規定を無視した師ゆずりのモダンな外観の設計案を提出する。

 また、当時からコンペの方法の改善を求め、戦後にその健全なかたちの制度実現に尽力したのが、彼の恩師で東京帝国大学教授の岸田日出刀であった。こうして、1957年2月にまとめられた「建築設計競技規準」に則って初めて実施されたのが、この世田谷の指名コンペなのである。

中庭から見た区庁舎の外観。ここに写る建物はすべて取り壊される

前川國男案に盛り込まれたもの

 コンペで求められたのは、約1300席の公会堂と、集会室・図書館・結婚式場・食堂などからなる区民会館、第2期として建設が計画された区庁舎だった。こうした諸室の構成にも、より市民に開かれた戦後型の公共建築への期待が託されていたことがわかる。そして、前川には、コンペ案の作成にあたって、自らのテーマとして自覚的に設定した特別な目標があった。それは、1919年に創設されたドイツの造形学校バウハウスの初代校長を務めたワルター・グロピウスやル・コルビュジエ、S・ギーデオンら、モダニズム建築を牽引した先駆者たちによって1928年に結成されたCIAM(国際建築家会議)で交わされた議論にまでさかのぼる。

 戦後の1947年に再開された同会議の第8回大会が、1951年7月にイギリスで開催された。その際、前川は、ちょうどル・コルビュジエのアトリエに学んでいた早稲田大学助教授の吉阪隆正と、1949年の広島平和記念公園と記念館の公開コンペで一等に当選したばかりの東京大学助教授の丹下健三と共に出席する。この会議のテーマが、都市の「CORE(核)」だった。そこには、議長を務めたスペイン出身の建築家で、グロピウスの招きでハーバード大学教授となったホセ・ルイ・セルトの、現代の都市がいかにしたら人々に活気と積極性を与え、コミュニティの核となる場所を創造できるのか、という問題意識が込められていた。ちなみに、セルトと前川は、同時期にル・コルビュジエのアトリエに学んだかつての同僚であり、晩年に至るまで親交のあった間柄だった。

 こうして、1951年のCIAMの議論に加わった前川は、「今日、コアは開かれたコミュニティのために建設されるべき」であり、そのためにも、「市民に余暇と文化活動のための開かれた空間を提供しなければならない」が、「日本にはそのようなコアはまだ存在しない」と発言している(Edited by J.TYRWHITT,J.L.SERT,E.N.ROGERS『CIAM8 The Heart of the City』Lund Humphries,London 1952)。そして、そのテーマを日本へと持ち帰り、自らの方法によってそれを具体化しようと試みたのが、この世田谷のコンペ案だったのである。だからこそ、コンペ応募案の説明書の冒頭には、次のような言葉が綴られていく。

今日われわれの生活意識に最も欠けているものは、コンミュニチーの一員としての意識だと言われ、それは又コンミュニチーを一体としての共感を呼び起す様な施設がないからだとも言われる。われわれは今回の課題はこの点に最大の意義を有するものと理解し、何よりも先づ区民のコンミュチーセンターとしての内容と建築的表現とをもつべきものと考えた。

 こうして、この建物では、正面性を持たない不整形な敷地の中央の中庭を、公会堂と区民会館、区庁舎が取り囲み、西側の都道に面しても区民会館を後退させて配置し、欅並木のある前庭を設け、区民会館と区庁舎をつなぐ1階を吹きさらしのピロティにすることによって、誰もが気軽に寄り集うことのできる公共空間を実現させたのである。また、区庁舎の1階にも吹き抜けの玄関ロビーを設け、戦前の権威的な庁舎とは次元の異なる市民に開かれた役所の姿をかたちにしていた。

西側の都道に面して設けられた欅並木のある前庭とピロティの風景。今回の改築によって、このほど良いスケールの広場はすべて失われ、ここに地上10階、高さ約45メートルの新庁舎が建ち上がることになる。

設計担当チーフの鬼頭梓が求めたこと

 このコンペの設計担当のチーフを務めたのは、幼少期と青年期を戦時下に送り、大学入学直後に敗戦を迎え、焦土のなか、厳しい生活環境の下で建築を学び、復興への強い思いを抱いて1950年4月に前川事務所に入所した若き日の鬼頭梓(1926~2008)である。彼は、区庁舎が完成して全体のかたちが整った直後の1961年、区民会館と区庁舎が中庭を取り囲む公共空間に込めた思いを、次のような言葉で書き留めていた。

親しみやすい空間を創りたい。(中略)大きなもの、立派なもの、美しいもの、それらは私たち建築家が誰でも求めてやまないものだ。だがかつて、それらが権力の象徴であったことも忘れることはできない。大きいこと、立派なこと、美しいことが悪いのではないことはいうまでもない。問題はもっと異なった側面にある。 それは“誰のための建物か”という点から出発する。何度も言い古された言葉だけれども、私たちの、市民の、あるいは民衆の、という言葉は、改めてまた何度でも唱えられなくてはならないだろう。それらの言葉が、本当にその実体を得て、最早あたりまえの言葉になってしまうまで。 それ故私は、親しみやすいものを創りたい、と願ったのである。(『建築文化』1961年5月号)

 こう記した鬼頭は、前川の下で、この直前に担当した神奈川県立図書館・音楽堂(1954)において、戦前の日本にはなかった開架式の自由に本が手に取れる閲覧室を有し、貸し出しも行う戦後型図書館の先駆となる仕事に携わっていた。その背景に進駐軍による日本の民主化政策があったことも記憶しておく必要があるだろう。そして、鬼頭は、この世田谷の仕事を経て、1964年の独立後は、ここに綴った思いを糧に、民主主義を育み、「生活の根拠地」となる図書館像を求めて、日野市立中央図書館(1973)や山口県立図書館(1973)など、全国各地に数多くの図書館建築を手がけていくことになるのである。

大樹に育った欅のある中庭から見た区民会館の外観。今回の改築では、客席と舞台だけを残してすべて撤去される。欅も移植されて、そこから左側に巨大な新庁舎がそびえ建つ予定である

その精神と方法は継承できるのか

 こうして見てくると、世田谷区民会館・区庁舎には、遠くイギリスから前川が持ち帰ったモダニズム建築の戦後のテーマであった都市におけるコミュニティ・コアの創造と、戦後世代の鬼頭が追い求めた市民の日常生活に根ざした親しみやすい公共空間の実現という戦後精神が込められていたことがわかる。竣工当時のこの建物に対する評価と期待の大きさは、掲載誌の『新建築』1959年7月号で、同じ年に竣工し、2016年にユネスコの世界文化遺産に登録されるル・コルビュジエの国立西洋美術館よりも、多くの紙面を割いて巻頭を飾っていることからも明らかに読み取れる。

 今回の現建物の約3倍の規模となる大規模な改築によって、そこに込められていたモダニズム建築の精神と方法は継承できるのだろうか。たしかに、人口は増加し、手狭となった庁舎の改築は避けられないのかもしれない。しかし、この場所のこの建物を改築することが最善の道なのか。おそらく、閑静な住宅地に相応しかったスケール感は完全に失われ、ポツリとひとつだけ残される区民会館は、1942年に出版されたバージニア・バートンの絵本『ちいさいおうち』(邦訳、岩波書店、1954年)に描かれたように、高層の庁舎の谷間に残された孤立した存在になってしまうだろう。それは、この建物に託され、60年にわたって培われてきた大切な空間の記憶を丸ごと失うことでもあるに違いない。

 コロナ禍の下、高密度の庁舎建築に対する別の視点も見え始めている。広く都市の在り方を問い直す動きが加速しようとするなか、この建物が体現してきた公共空間の意味を考える時間が少しでも共有されてほしい。私たちには、今一度、立ち止まって考えることが求められていると思う。

区庁舎の中央にある吹き抜けの玄関ホール。左側の壁は大沢昌助のデザインしたレリーフ。改築によってこの空間は失われる

編集部

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