建築やインテリア、日用品からサイン計画、デザインコンサルタントまで幅広くデザインに携わり、2011年に60歳という若さでこの世を去ったデザイナー・宮城壮太郎。「デザインに何ができるか」を問い続けた、宮城の信念ある仕事を紹介する回顧展「宮城壮太郎展──使えるもの、美しいもの」が世田谷美術館で行われている。
宮城は1951年東京都生まれ。千葉大学工学部でプロダクトデザインを学んだ後、従来にないデザインの考え方で当時注目を浴びていた浜野商品研究所へ入社し、建築やインテリアなど様々なもののデザインすることを学んだ。
本展は全4章に、プロローグ、エピローグを含むかたちで構成。日用品、文房具、工業用電気製品からホテルのサイン計画に至る、宮城の幅広い仕事を検証し、現代生活におけるデザインの可能性を探るというものだ。
まずプロローグでは、浜野商品研究所にいた頃の宮城を振り返る。この頃の代表的な仕事に、1979年に富士写真フィルム株式会社から販売されたカメラの「FUJICA HD-1」や「FUJICA HD-S」がある。宮城はアウトドア、とくに海辺や川辺での使用を前提とした全天候型生活防水カメラの開発メンバーとして、プロダクトデザインを担当した。
第1章では、宮城が長きにわたりデザイナーとして携わった数々の企業との仕事を紹介する。スイス製のハンド・フードプロセッサーを輸入・販売するために創業された株式会社チェリーテラスでは、オリジナル製品の開発にも取り組んでいた。そのなかで、宮城がクライアントの意向を汲んでデザインしたのが、スタッキングが特徴の「オールラウンドボウルズ」や「クッキングバスケット」などであった。
チェリーテラスの代表取締役会長である井出櫻子は、当時の宮城の仕事ぶりを振り返り、「生活者の視点を持ちながらも、使いやすさと美しさを追求するデザイナー。素直な性格が仕事にも表れている」とインタビュー映像にて語っている。
また、宮城の代表的な仕事のひとつに、アスクル株式会社の仕事が挙げられる。1992年に総合事務用品メーカー・プラス株式会社内の新規事業として設立されたアスクルでは、ロゴマークの作成から宮城は携わった。ほかにも、ティッシュペーパーから事務用品まで数々のアスクルオリジナル製品のデザインを担当した。
アスクルの本社ともなった「e-tailing center」の開設の際には、デザインディレクターとして活躍。「みんながフラットに働ける環境」や、「ヒエラルキーを作らないオフィス」を目指した。
第2章「さまざまなデザイン」では、浜野商品研究所に在籍していた頃に担当したものから、晩年に至るまでの宮城の仕事を紹介する。
いずれも色や形態が抑えられており、かたちと機能性のシンプルさが際立っている宮城のプロダクト。宮城は「デザインしないこともひとつのデザイン」と語っており、その考えゆえに、より多くの人々の生活に溶け込んでいったのだと考えられる。
宮城の仕事の幅広さを示す例として、「ホテルのサイン計画」が挙げられる。第3章では、宮城が携わった羽田エクセルホテル東急とザ・キャピトルホテル東急が映像で紹介される。また、宮城はホテルのコンセプトにあわせて、グラフィックアートの制作も行っていた。
1980年代末に宮城は、二子玉川の再開発計画に外部ブレーンとして加わった。第4章ではこのプロジェクトについて取り上げ、宮城によるスケッチを展示。メインとなる大通りだけでなく路地のスケッチもあり、行き交う人々が主役の街として構想されていたことがうかがえる。
エピローグでは、宮城が晩年まで講師を務めていた、法政大学大学院デザイン工学研究科の授業「製品デザイン原論」の履修生に送ったメッセージが掲載されている。「情報社会とデザインについてのメモ」という副題がついたその内容は、大量生産・大量消費の社会からの転換を強く意識した、宮城が行ってきたことでもあった。結論部の「真のモノの価値 真に人間の幸せのために」という言葉は自身に言い聞かせてきた言葉でもあるのだろう。
また、デザイナーを志した学生時代に宮城は、自動車の水彩絵を描いたり、ミニカーのコレクションを行っていた。宮城は自身のウェブサイト内でデザインの仕事を掲載するなか、プロダクトデザインのパートの最後に「transportation」と見出しを立て、描いた車の輪郭に「ヒ・ミ・ツ…」の文字を添えていた。このことから、宮城は若い頃から自動車への興味を持ちつつ、現代社会にあるべきモビリティについて考えを巡らせていたのではないか、と考えられる。
現代の生活や日常にするりと溶け込むデザイナー・宮城壮太郎。その脳裏に浮かんでいたデザインの将来像を、この目で見てみたかった。