「彼女たちのアボリジナル・アート」(アーティゾン美術館)に見る、オーストラリアの歴史と現代美術の現在地【4/8ページ】

──そもそも美術の文脈においては、手工芸など主に女性がやるとされてきたものが除外されてきたという歴史があり、現在その見直しが行われています。同じように、アボリジナル・アートにおいてもそのような傾向や時代によるとらえられ方の変化があるのでしょうか?

 例えば本展では、出展作家であるエミリー・カーマ・イングワリィによるバティック(ろうけつ染めの布地)を1点展示しています。バティックはインドネシアあたりが発祥ですが、エミリーのコミュニティに紹介されたのは1977年のことです。政府が先住民への経済活動を促進するために実施した成人教育プログラムの一環として外部の白人女性が登用され、バティックの制作を教えたというのです。エミリーはそれから10年にわたってバティックを制作しています。

展示風景より

 男性中心であった主流社会に女性が進出するようになった社会背景も影響しているのでしょう。パパニア・トゥーラ・アーティスト協同組合にも、 80年代になると白人女性のマネージャーが現れます。そのマネージャーに促されるかたちでコミュニティの女性たちは夫など男性作家とともに絵画作品の制作に関わり始め、次第に個人としても絵画を描くようになっていきます。また、同時期には国内で多文化主義が興り始めたため、アボリジナル・アートを国家のアイデンティティとして組み込もうとする動きも見られました。その戦略はオーストラリア国内の美術館でも見られ、先住民のバックグラウンドを持った女性キュレーターが雇用されるといったことも起こりました。このような流れもあり、女性のアボリジナル・アートというものがきちんと紹介されるようになったのは80〜90年代の話なのです。

展示風景より

アボリジナル・アートと日本

──オーストラリア国内の美術館でアボリジナル・アートが紹介され始めたのが1980年代頃からだとすると、すでに作品が収集されていたということなのでしょうか。当時のオーストラリア国内の具体的な状況と、日本をはじめとするアボリジナル・アートの国外の動きについてもお伺いできますか?

 そこが結構おもしろい点でして。じつはアボリジナル・アートが最初に評価されたのは国外だったんです。1967年に先住民の人々が市民権を得てオーストラリアの経済活動に組み込まれ、73年に政府の援助のもとアボリジナル・アート委員会が設立されました。委員はすべてアボリジナルのメンバーで構成され、そこが中心となって、国外にアボリジナル・アートを現代アートの文脈で紹介する展覧会プログラムを打ち出していきました。しかし、オーストラリア国内は根強い先住民差別があったため、いかに現代アボリジナル・アートが起こり始めても、目を向けられる土壌があまりなかったのだと思います。

 1980年代後半以降には、北米とヨーロッパで記念碑的な展覧会として「Dreamings: The Art of Aboriginal Australia」や「Aratjara: Art of the First Australians」が開催されました。そこでアボリジナル・アートに向けられる目がガラッと変わった。そうすると今度はオーストラリア国内もその動きを無視できなくなって、これをきちんと現代美術として受けいれていこう、という意識が生まれました。

編集部