なぜウルス・フィッシャーは、自分自身を溶かし続けるのか【3/4ページ】

ロウソクでセルフポートレイトをつくる意味

── なぜセルフポートレイトとして自分を使うことにしたんですか?

フィッシャー 自分自身に対してなら、何をしても誰も文句を言わないだろう。だから、自分じゃなければダメだというわけじゃない。他の誰かでもつくれたかもしれないけど、自分の顔というのはとても見慣れている。歯を磨くとき、服を着るとき、自分を見る。それは比喩的なニュアンスももつから、誰かを選ぶよりも自分自身を使うほうが、いろんな意味で納得がいく。私にとってこの作品は、セルフポートレイトというよりも、もっとも自然なイメージを扱っているんだ。今回はたまたま自分になったが、重要なのは、彫刻そのものが普遍的なイメージでなければならないということだ。誰でも彫刻に適しているわけではない。友人はたくさんいるけど、ほとんどの友人のポートレイトはつくっていない。ポートレイトの作品を長くつくってきたが、作品数はそれほど多くない。

 でもある特定の人物のなかに、普遍的な何かを感じることがある。例えば、ある友人は背が高くて、いつも下を向いて考えごとをしている。彼をモデルにしたら、良い彫刻になると思った。彼からはいつも世界の重さを感じる。その性質のなかに何かがあるんだ。

── 西洋絵画のなかでは、ロウソクはメメント・モリ(死を想え)というような象徴的なモチーフとして描かれますよね。どうして彫刻の素材にロウソクを使用しているのでしょうか。

フィッシャー 始めたときはそこまで自覚的ではなかったけれど、確かにロウソクという素材は、多くのものを含んでいる。メメント・モリなども、もちろんそこに含まれている。しかし、これは具象彫刻をつくる素材の選択の問題でもあるんだ。大理石などでつくると記念碑(モニュメント)のように仰々しくなってしまうが、ワックスはより体の柔らかさに近い。そのため記念碑のように感じさせることなく、ポートレイトをつくることができる。ブロンズや大理石のように重苦しくなく、具象と向き合う方法としてロウソクを選んでいるんだ。

溶けている途中の《Mirror》 提供:ファーガス・マカフリー東京

 そして、私がこの素材を気に入っているのは、人間がつくった秩序と、自然の秩序の対比を生み出せることだ。ロウソクが溶けることは、ランダムな現象に思えるが、一滴はいつも似たサイズになる。滴は(と実演しながら)こんなふうに垂れる。ロウソクは溶ける過程で多くの滴を生み出す。その流れをある程度コントロールしたり方向づけたりすることは可能だが、基本的には自然の成り行きに委ねられている。それは人工的な秩序と、物理法則ないし自然界の秩序との混合といえるかもしれない。人工的で完璧なものをつくり上げたとしても、いずれそれは解体していく。だからこの衝突は避けられない。ある意味では解体であるが、同時にその過程自体が新たなものを生み出していく。人間が整備した道の隅から植物が静かに育ち始めるように、自然が少しずつ支配していく感覚がある。彫刻が融解していくことで、それは自然の一部となっていくんだ。

──自然のシステムを意識しているということですね

フィッシャー ええ。人間も自然の一部だからね。すべては自然だから。彫刻をつくり上げたとき、それがただの物質(素材)に過ぎないと感じることがある。そのフラストレーションのなかで、彫刻に命を宿らせたいという欲求が生まれる。小さな炎があると、それが命になる。炎は彫刻を溶かし始め、形を少しずつ変えていく。動きのあるものとなる。溶けることによって、彫刻はただの物質ではなくなるんだ。

──キャスティング(型取り・鋳造)は形状を正確に転写し複製を作成する手法なので、同じサイズになると思いがちですが、あなたの作品は対象を機械的に精確に再現しながらも、大きくしたり小さくしたりサイズを変えていますよね。それはなぜですか?

フィッシャー 伝統的な彫刻の手法を考えると、むしろそれは自然なことだ。また、同じサイズでキャストすると、彫刻として小さく見えてしまうんだ。自分と同じサイズの彫刻を作ると小さく見える。だから、サイズを現実のままにするのではなく、どう見えるかという認識を大切にしている。また、溶けるときに少し大きい方が好きなんだ。壊れにくくもなるし、溶ける形象としても、脆弱性を感じさせたくない。鑑賞者の目線より高いところから始まることで、空間との関係がまるで変わってくる。でもサイズの決定はその都度違う。大きくつくるときもあれば、小さくつくるときもあるよ。

──形象の脆弱性について触れましたよね。

フィッシャー そう、そうは見せたくないんだ。それは生命的なものではなく、たんにモノとして作品を見ることになるからだ。

──どのようなことを考えて具体的にサイズを決定するのですか?

フィッシャー 作品のモチーフとなる実物のイメージとも関係している。ときどき屋外で巨大な作品をつくるが、開けた自然の風景のなかに置くと、まったく大きく見えないことがある。サイズというのは相対的なんだ。イメージにはサイズがない。心の中のイメージには、本来サイズというものが存在しない。小さなものを大きく思い描くこともできるし、大きなものを小さく捉えることもできる。だからある意味では、直感的な決断で、特定のルールに従ったものではない。

──そのような考えは、あなたがまずアーティストとしてのキャリアを写真から始めたことと関係があるのでしょうか。

フィッシャー 私は多様な表現形式で作品をつくってきた。そして、使うメディアがサイズを決定すると思う。例えば絵を描くとき、それは体のサイズに関わっている。キャンバスが小さければ、座って描く。より大きければ足も使う。体全体を動かす。メディアと直接作業するとき、行為の直接的な痕跡が記録としてメディアに残る。シルクスクリーンのような技術的なメディアの場合、そういう性質はない。

 彫刻は、伝統的に考えても、コピーをするときにサイズを変えることは普通のことだ。ルネサンスの彫刻の制作プロセスを見ると、まずすべての動きが完璧になるまで粘土モデルをつくり、それからキャリパー──測定してサイズを変える道具──を用いて異なるスケールの彫刻作品に写し取る。ヘンリー・ムーアのような大きな彫刻をつくる作家は皆、オリジナルを拡大する手法を積極的に用いている。巨大な作品を直接つくっていくのではなく、小さなサイズで制作し、それを拡大する。実物サイズより大きな彫刻は、伝統的で非常に一般的なことだ。絵画や素描のように身振りや痕跡を直接的に記録できる技法は、彫刻においては多くない。キャスティング、窯焼きなど、変換の過程を経ることが多い。

 彫刻にはモデリング(加算)とカーヴィング(減算)がある。減算彫刻というのは彫ること。彫ることでは行為を直接的に記録できる。こうするかああするか、より直接的に判断できる。痕跡をどこに残すか。そういう意味では、より伝統的なメディアだ。いっぽう、直接的な記録が不可能な彫刻は、大きな船のようなものだ。止まるのに30分かかる船は、あらかじめすべてを準備しておかなければならない。プロセスが始まったら、その30分のあいだは何も変えられない。粘土は直接性がある。しかし窯で焼かなければ持続しない。焼くためにはひびが入らないようつくらなければならず、その時点ですでに自由ではない。より技術的な制約のなかで作業しなければならないんだ。

編集部