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山下裕二に聞く。日本美術を「ひらく」ということ──若冲展から25年、そしてこれから【4/4ページ】

“ひらく”ことは風を通すこと

──「日本美術の鉱脈展」では、若冲もかつては「知られざる鉱脈」のひとりだったとおっしゃって、山下先生がこれまで注目されてきた古美術から現在の作家までを取り上げています。もっとも古いものでは大学院生の頃までさかのぼって数十年分の論考をまとめられた『日本美術をひらく』も刊行されて、近年のお仕事は集大成のような趣があります。

 最近は“もう整理しなきゃ”という気持ちが出てきました(笑)。60代も半ばになって、そろそろ荷物を減らさないといけない。でも、「終活」と言っても、僕の場合はネガティブな意味じゃない。むしろ次の世代に何を残せるか、という前向きな整理なんです。

──大学はまもなく退任されるとか。

 はい。2026年度で大学教師の仕事は一区切りです。明治学院大学に勤めて30年以上。長かったですよ。でも僕は“組織人”ではないから(笑)。

──山下ゼミからは、多くの学芸員や研究者が巣立っています。

 ええ。いまの美術館の学芸員や研究者のなかには、僕の教え子も多い。みんな優秀で、自分の領域を切り開いている。僕は彼らに、「正解を探すな」と言い続けてきた。美術には正解なんてない。見る人の数だけ答えがあるんだから。

──それは先生ご自身の姿勢とも重なりますね。

 そう。僕は、絵を見るたびに“裏切られたい”んです。自分の予想を超えるものに出会いたい。だから、展覧会をつくるときも、授業をするときも、つねに“未知”を仕込むようにしている。自分が驚けない展示なんて、観客も驚かないですよ。

──25年前、若冲展が“日本美術を社会にひらいた”と言われました。改めて、その後の四半世紀で、風景はどう変わりましたか。

いやもう、劇的ですよ。若いころは、東京国立博物館の常設展に行っても、本当に誰もいなかった。守衛さんが鍵を閉める時間まで、僕ひとりで雪舟を見てたくらい(笑)。それがいまや、週末になると人でいっぱい。日本美術の展覧会が行列をつくる時代になるなんて、夢にも思わなかった。その一翼を担ってきた自負はあります。

左上から、山下裕二『日本美術をひらく 山下裕二論考集成』(小学館、2024)、山下裕二『日本美術の二〇世紀』(晶文社、2003)、『日本美術の鉱脈 未来の国宝を探せ!』図録(大阪中之島美術館ほか、2025)、『特別展覧会 没後200年 若冲』図録(京都国立博物館、2000) 撮影=手塚なつめ

──観客の層も変化しました。

 ブログやSNSで情報を共有し、自分の言葉で作品を語る人たちが増えたのは大きい。昔は「専門家が語り、一般の人が聞く」構図だったのが、いまは完全に逆転している。僕はそれを“民主化”だと思っています。専門家が上から目線で語る時代はもう終わり。これからは“みんなで語る美術史”。僕も、その風の中で生きていきたい。

──先生の言葉には“風”という比喩が出てきます。最後に、「日本美術をひらく」という言葉をどう捉えているのかお聞かせください。

 “ひらく”というのは、扉を開けることじゃなくて、風を通すことなんですよ。閉じた部屋に風を通すと、空気が入れ替わって、新しいものが生まれる。日本美術も同じ。専門家だけのものにしてはいけない。風を入れることで、思いもよらない出会いや発見が生まれる。

 もうひとつ言うなら、“伝えるバトンを手渡す”ことかもしれません。僕が開けた窓から入った風が、次の世代を動かす。そうなればもう十分。

──その風は確実に広がっていると思います。

 そう信じたいですね。未来像なんて描かなくていい。瞬間瞬間を爆発して生きるだけ。それが太郎さんの教えであり、僕のやり方でもある。日本美術はこれからも変わり続ける。閉じないこと、怖がらないこと。それが“ひらく”ということなんです。

編集部