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山下裕二に聞く。日本美術を「ひらく」ということ──若冲展から25年、そしてこれから【2/4ページ】

日本美術を「ひらく」実践

──ご自身の転機はいつだったのでしょう。

 30代後半ですね。それまでは完全に論文中心の人間でした。でもある日、ふと「俺の書いているものは、誰も読んでいない」と思って(笑)。それで、もっと直接的に伝えたいと考え始めた。岡本太郎の本を読んで、「瞬間瞬間に爆発して生きろ」という言葉に雷を打たれたんです。太郎さんは美術を“行動”だと考えていた。赤瀬川原平さんと出会ったのも1996年の頃。僕も“行動する美術史家”になろうと思いました。

転機は岡本太郎だった 撮影=手塚なつめ

──メディアとの出会いもその延長線上にあったのでしょうか? 赤瀬川さんとの出会いは、今はなき美術雑誌の『日経アート』(1999年休刊)だったとお聞きしました。

 そう。日本美術応援団が結成されたのは『日経アート』誌上のことで、その連載をまとめた単行本『日本美術応援団』の表紙で学ランを着たんですよ。あの写真を見た『カーサブルータス』の編集者が「この人面白い」と声をかけてくれて、そこから雑誌の仕事が一気に増えた。当時は『ブルータス』『和樂』『サライ』などが次々に日本美術特集を組んでくれて、まさに“メディアが美術を動かす時代”でした。

『日本美術応援団』(筑摩書房、2004) 写真提供=筑摩書房

──学問の場からメディアの場へ。抵抗はありませんでしたか?

 全然(笑)。学会にいても変化は起きない。むしろ外に出て、いろんな人と関わることで見えるものがある。編集者と一緒に展覧会のタイトルを考えたり、コピーを練ったり。そういう仕事の中に、文化を動かす手応えがありました。

──国立美術館、国立博物館が2001年に独立行政法人化し、多くの美術館・博物館で収益化が求められるようになりました。つまり、多くの人に「ひらく」という姿勢が美術館・博物館に求められるようになったのが2000年代以降なのかと思います。そういった大きな時代の変化のなかで、象徴的な仕事のひとつに、「超絶技巧」展があります。

 あれは自分でも驚くほどの反響でした。明治工芸の再評価をしたかったけれど、「明治工芸展」と書いても誰も来てくれない(笑)。それで思い切って「超絶技巧」と名づけたら、メディアが一斉に取り上げてくれた。最初の三井記念美術館の展覧会(「超絶技巧!明治工芸の粋」展、2014年)は8万人。翌年には地方巡回も決まった。キャッチコピーの力を痛感しました。

 作品の価値は変わらないのに、言葉を変えるだけで受け取られ方もまったく変わる。僕は、美術史家もコピーライターであるべきだと思っています。キャッチフレーズで人の興味を惹き、そこから深い世界に導く。それが「ひらく」ということでもある。

山下が監修を務めた特別展「超絶技巧、未来へ! 明治工芸とそのDNA」(2023、三井記念美術館、東京)の展示風景より、吉田泰一郎《夜霧の犬》(2020)

──展示の細部にも、そうした姿勢が表れています。今年監修された大阪中之島美術館での「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」でも、キャプションが印象的でした。

 1行目が大切で、キャプションひとつでも観客と会話できるんです。例えば、長谷川巴龍の《洛中洛外図屏風》に「史上最もヘタな洛中洛外図屏風」とかね。ちょっと笑いを交えると、見る人が立ち止まる。現在、静嘉堂文庫美術館館長を務められている安村敏信さんが板橋区立美術館にいらっしゃった頃、そういった仕事をいち早くされていたんですね。彼は本当に、観客と同じ目線で美術を伝える人です。

長谷川巴龍 洛中洛外図屏風 江戸時代

──“観客と話す”展示。まさに美術をひらく実践ですね。

 そう。専門的な解説だけじゃなくて、「見てみよう」「考えてみよう」という呼びかけをすることが大事。そこから興味が広がっていく。

──2000年代から日本美術を扱う展覧会が一気に増えました。

 そうですね。若冲ブーム以降、「琳派」や「浮世絵」「仏像」など、テーマが次々と広がった。観客の層も変わりました。昔は年配の男性中心だったけど、いまは20代、30代の女性も多い。SNSで情報を共有しながら美術を楽しむ文化ができた。時代の空気が変わっていったんです。だけど、その波を感じ取って、いち早く“言葉”にできたのは幸運でした。

編集部