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《動植綵絵》はいかに生まれたのか? 求道者・伊藤若冲の歩んだ道のり

日本における「奇想の画家」としてまず名が挙がるであろう伊藤若冲。その代表作である《動植綵絵》はいまも多くの人々を惹きつけてやまない。この傑作はいかに生まれ、若冲はそこにどんな思いを込めたのか。

文=verde

伊藤若冲 紫陽花双鶏図(動植綵絵) 1759 宮内庁三の丸尚蔵館 出典=宮内庁三の丸尚蔵館「花鳥の美 若冲から近代まで」図録より

 美術史を見渡すと、しばしば奇抜で、独創的な作風の画家や作品と巡り合う。ほかの誰にも似ておらず、独自の道を切り開き歩んだ「奇想の画家」たちの作品は、一度見ると忘れることができない。

 日本において、そのような「奇想の画家」のひとりとして、まずいちばんに挙げられやすいのが、伊藤若冲である。彼の代表作《動植綵絵》は、その迫真的な描写や鮮やかな色彩など、一度見たら忘れることができない。

 そして、そんな彼の代名詞ともいうべきモチーフが、鶏である。それまでの美術において、鶏を主役とした絵はほかにない。しかし若冲は、《動植綵絵》全30幅のうち、8幅で鶏をモチーフにしており、その後も《仙人掌群鶏図》などで取り上げている。

 なぜ彼は鶏というモチーフにここまでこだわったのか。今回は、若冲の半生とともに、《動植綵絵》誕生に至るまでの経緯をたどってみたい。

伊藤若冲 老松白鶏図(動植綵絵) 1760頃 宮内庁三の丸尚蔵館 出典=宮内庁三の丸尚蔵館「花鳥の美 若冲から近代まで」図録より

生い立ち〜絵の道に居場所を見い出す

 伊藤若冲は1716年、京・錦小路の青物問屋「枡屋」の長男として生まれた。23歳の時に、父の死を受けて家長の座を継いだものの、仕事になかなか身が入らなかった。

 もともと若冲は学問が好きではなく、字を書くのも得意ではなかった。音曲など、商人たちにとってしばしば社交ツールともなった様々な芸事にも、酒を飲むこと、女性と付き合うことなどの「楽しみ」にも興味を持てなかった。

 そのような彼の性格は、様々な人とのコミュニケーションが欠かせない「商家の旦那」という立場には不向きだったと言えよう。日々、家長としての務めを果たしながらも、居心地の悪さや気後れを感じずにはいられなかったのではないだろうか。

 そんな彼にとって、精神的な拠り所になったのが、絵を描くことだった。絵を描いているあいだは、たとえ束の間でも、家業の煩わしさを忘れ、自分らしい自分に立ち返ることができたのだろう。やがて、それは趣味の範疇を超え、彼は絵に没頭していくこととなる。

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