美術史家は“裏方”でいい
──活動のなかには、知られざる作家や見過ごされてきた分野を掘り起こす姿勢が一貫しています。
僕は、美術史家は“裏方”でいいと思っています。発掘して、見せる場をつくる。その先で作品が自立してくれればいい。例えば村上隆や奈良美智のように、世界のアートシーンで活躍する作家がいるいっぽうで、素晴らしい仕事をしているのに評価されないまま消えていく人もいる。例えば石田徹也は生前無名でしたが、現在はガゴシアンで個展が開催されるなど、世界的に知られる作家になりました。「発見の回路」をもう一度つくることが、僕の仕事だと思っています。ギャップがあるだけ仕事になって、応援のしがいがあるんです。
──それは明治工芸の再評価にも通じますね。
まさに同じ構造です。清水三年坂美術館館長だった村田理如さんが、海外で散逸した明治工芸を買い戻していた。僕はそのコレクションを見せるための展覧会をプロデュースする。彼の情熱はすごかったですよ。作品を「逆輸入品」ではなく「文化遺産」として見せたいと本気で考えていた。彼が亡くなってしまったのは残念だけど、あの熱量は絶対に忘れません。
──先生の言葉を聞いていると、“学者”というより“プロデューサー”のようですね。
そうかもしれない(笑)。僕は自分のことを「展示の編集者」だと思っていますから。展覧会は本づくりと同じで、構成・文脈・見せ場の流れが大事です。明治工芸展でも、まず“驚かせる作品”を入り口に置いて、次に“技術の解説”、最後に“作家の想い”。そういうドラマがある展示にしたかった。人は展示を通して“物語”を見たいんですよ。学問的に正しい順序じゃなくても、感情が動く構成をつくる。そうすると、観客が「自分の言葉」で作品を語れるようになる。僕はそれを一番大事にしています。提案するのが仕事なんです。

──そのいっぽうで、“見ることを教える”教育者でもあります。
教えるというより、いっしょに見るんです。僕のゼミでは、美術館で立ちっぱなしで3時間見るなんて当たり前。画像で済ませる学生が多いけど、現物を見ると全然違いますから。光の反射や筆の呼吸、サイズ感──それを体感しないと何も始まらない。美術史は“現物の学問”です。資料を読むのはあとでいい。まず見て、感じる。感じたことを言葉にする。そこから学問が始まるのです。
──まさに“ひらく”教育。
大学という場所は本来、閉じた世界なんですよ。でも僕は、寺子屋のつもりでやってきた。学部長もやらないし、会議にも出ない(笑)。学生一人ひとりの“見る力”を育てたいだけ。ゼミでは「好きな作品を選んで語れ」と言う。正解は求めない。大事なのは、見ることから逃げないことです。
僕は広島県呉市生まれで、大学に入学するまで行ったことがある美術館は広島県立美術館くらい。でも、小学6年生のとき『週刊少年マガジン』の表紙を通して横尾忠則さんを知り、高校2年生のときつげ義春さんのマンガに出会い、なんの知識もなく、すごいと思った。赤瀬川さんのご自宅で僕が初めて出会ったとき、共通の話題として盛り上がったのもつげさんのマンガでした。わかる・わからないじゃない。すごいと思うかどうかなんです。

──先生の活動は、アカデミズム・メディア・教育と多層的です。ご自身では、何を軸にしていると感じますか。
軸はシンプルです。「見せる」と「伝える」。この2つだけ。論文も展覧会も授業も、最終的には“見せ方”の問題に帰着する。どんなにいい作品でも、見せ方が悪いと届かない。逆に、見せ方次第で世界が変わる。僕は“キャッチコピーの人”と呼ばれることもあるけど、コピーは軽くないんです。言葉の端に思想がある。例えば「超絶技巧」はたんなる宣伝文句じゃない。あの言葉には、「職人技こそ芸術だ」という思想が込められている。近代以降の美術史が軽視してきた“技”へのリスペクト。それをタイトルで可視化したかったんです。
──たしかに、“技巧”という言葉には長く偏見がありました。
そう。美術教育では「技は古い、コンセプトが新しい」という風潮が強かった。でも日本美術の本質は、技と精神が融合していること。だから僕は「超絶技巧」という言葉で、それをもう一度引き戻したかった。
──こうして話を聞いていると、先生の“ひらく”という思想は、展示や教育だけでなく、美術史そのものを再構成する試みのように思えます。
そうかもしれません。僕は、日本美術史を「過去の記録」ではなく「現在進行形のドラマ」として見たい。例えば若冲の展覧会をやると、彼が生きた18世紀の京都と、21世紀の私たちがつながる瞬間がある。それが面白いんです。学問的な距離をとるよりも、「いまここで何を感じるか」を軸に語る。そこに“ひらかれた美術史”の可能性があると思います。




















