3年ごとに変遷するテーマ
——ギャラリーαMの個展のステートメントで藤城さんは「3年ごとにテーマが変わっている」というようなことを書いていました。友人の落書きを集めた展示を行っていた高校時代の2007年を起点に、そこから2010年までの3年間は、ご自身ではどのような時代だったと考えますか?
その3年間の大きな動きとして、私がポストポッパーズとかカオス*ラウンジをスタートさせたことがあると思います。まずその前に結成の経緯を少し話すと、大学に入ってからは、リアルの大学の友達よりもネットで知り合った同世代や大人と交流するのが楽しかったので、彼らと交流を続けていました。
例えばTwitterが日本語のサービスを始めた直後はユーザがすごく少なくて、「秋葉原のあのカフェに行くと、Twitterの“あのアカウント”の本人がいる」みたいな感じだったんです。当時は、アニメのキャラクターをアイコンにしている人をバーッと片っ端からフォローして、そういう人たちのオフ会があると足を運んでいました。そんなふうにネットを介して知り合ったひとりが、「梅ラボ」のアカウント名で活動していた梅沢和木さんです。
——どのような経緯でグループの活動をスタートさせたのでしょうか?
ポストポッパーズ結成に際しては、梅沢さんの存在がすごく大きかったです。梅沢さんはキャラクターを解体するようなドローイング作品をつくったり、ネット上の画像を再構成するような作品をpixivで公開していて、衝撃を受けました。梅沢さんのようにシンパシーを感じる活動する人を集めて、ポストポッパーズと名付けたグループ活動を模索しはじめました。私は、自分の作品を補強するという意味でも、「同じ時代に同じこと考えてる人がこんなにいる」ということを見せたほうがいいと思っていた。グループというパッケージでちゃんと見せるということができれば、現代美術のフィールドでも活動していけるんじゃないかと考えていたんです。
——ちなみに「藤城嘘」というアーティストネームを使いはじめたはこの頃ですか?
そうですね。名前が「嘘」だと、苗字の「藤城」の真偽も曖昧になる効果が気に入ってつけました。本名とアーティストネームで活動を分けようと思っていた時期もあったのですが、あっというまに「藤城嘘」が有名になってしまって、分ける意味が感じられなくなってしまいました。いま、自分を本名で呼ぶのは家族くらいですね。
ポストポッパーズからカオス*ラウンジへ
——2008年にスタートしたポストポッパーズはその後まもなくカオス*ラウンジへと活動形態を変えますね。
はい。内実を言えば、ポストポッパーズは比較的少数の7〜8人でグループとしての活動を意識していたのですが、みんなまだまだ若く、現代美術の分野でやっていきたいというよりも、「発表にこだわりなく、ただつくっているほうがいい」というメンバーもやはりいて、私が目指したいものには関心を持ってくれなかったりしたんですね。そこで、グループで活動するという部分で少し挫折してしまいました。カオス*ラウンジは企画と趣旨に合わせて参加メンバー選ぶスタイルをとっていますが、その動きやすさもあっていままで続けてこられた気がします。
——具体的に、ポストポッパーズからカオス*ラウンジへと転換していく流れはどのようなものだったのでしょうか?
2009年の3月頃に「カオス*ラウンジ」と名づけたグループ展を開催したのですが、その後、梅沢さんの紹介で黒瀬陽平さんと知り合い、黒瀬さんが「カオス*ラウンジの構想は面白いから、上の世代の作家も巻き込んで、都内何ヶ所かに拡大して共同でやろう」と提案してくれました。そこから「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」展を皮切りに、グループで大規模に活動するようになりました。
——そして2011〜14年です。この期間の変化はおそらく東日本大震災も関係してくるかと思うのですが、藤城さんの作品には具体的にどのような変化があったのでしょうか?
東日本大震災を経て考えたのは、作品をつくるうえで自分の置かれている状況とか条件を考えるときに、自分のルーツをちゃんと考えたことがなかったということでした。私は、父親が香港人なんです。ただ、私は日本で生まれ育ったので日本語しか喋れないし、香港も1回しか行ったことがなく、自分が何者であるか、何も考えずにいまこの場所で暮らしていることに対しての反省が多少なりともありました。
カオス*ラウンジのメンバーで、震災後に何度か東北を訪れるにあたって、現地の人さえ忘れていたような昔の人々の欲望や昔からあった信仰、いわゆる宗教美術を取材するようになり、キャラクターについて再考するようになりました。キャラクターと植物は似ているという話をしましたが、日本でのキャラクターの受容と神仏の受容にも通ずるところがあると知りました。
——例えばどういった点が似ているのでしょうか?
同じ神様が日本各地にいるのですが、それでご利益が減り、パワーが分散するわけではない。「それぞれが均等にありがたい」という認識ですよね。キャラクターも、二次創作を含めて描けば描くほどパワーは変わらずありがたいものになる。そこがまず、すごく似ていると思いました。加えて、命があるかないかわからない状態のキャラクターは、別の世界とこちらの世界を行き来するような、つないでくれるような存在でもあるんですよね。そのあり方も、人間にとって聖なるものや信仰の対象とされるものに似ているな、と。
絵画のルールを壊したい
——なぜ、震災をきかっけに藤城さんのなかでキャラクターと宗教が結びついたのでしょうか?
震災を機に、インフラや社会構造を含め様々な課題が明るみになりましたよね。そこで、過去の人々がどのような欲望を持ち、どんな祈りを捧げてきたかを調べることで、いまの問題に向き合えるのではないかと思いました。けっして日本の宗教=原点回帰やナショナリズムということではなく、いま日本と呼ばれている地で過去生きていた人が持っていた欲望や信仰がどのように表されたかを知り、そこで生まれた思想やイメージをいまどんなふうに使うことができるかな、というところです。キャラクターを消費する文化が、歴史のどこと通じ、どう違うのかを知りたい。
あとは、震災があったうえで美術がリアクションするというときに、例えばChim↑Pomのように現場に行って被災地からメッセージを発信する、シグナル的な発信の方法と、長い時間をかけて伝えていく方法、大きく分けて2つのパターンがあると思います。演出家の高山明さん(PortB)が震災後におっしゃっていたんですけど、「私は亀甲文字みたいなものをつくりたい」と。亀甲文字みたいに、亀の甲羅の割れ目が、暗号として現れて、長い時間をかけて人に伝わっていく。私はどちらかというとそんな暗号の美術というか、記号として長く残していくことに興味があるんです。
——藤城さんの作品に文字が登場するのもこの頃からですね。
はい。幼少期から文字を書くのが好きで、同じ部首の漢字を書き並べたり、部首と部首を組み合わせて新しい漢字をつくって遊んでいました。記号も文字も英語では「character」で、自分が描いてきたのも「キャラクター」。そのつながりを意識したのも震災以降だったと思います。文字というのはキャンバスの上で強い意味を持ってしまうので、絵画ではタブー視されている側面もあるのですが、逆に書道やタイポグラフィのような規範で固められていない文字の扱いができるのではないかと思いました。感覚としてはグラフィティに近いかもしれないです。
——あえてタブーを犯し、絵画のルールを打破するために文字を意識的に取り入れたということですね。
はい。私は絵画のことを考えるときに、テクニックやモチーフの話に終始させたくないんです。絵画を外からとらえ、どうしたらルールを壊せるかということばかりを考えるタイプなので、その傾向がキャラクターの表象や文字を絵画に入れ込むきっかけになったのかもしれません。