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2019.2.9

ソフィ・カルが語る作品制作の姿勢(アティチュード)。「私の目的は『壁』と『本』」

原美術館で20年ぶりに「限局性激痛」をフルスケール展示し、大きな話題を集めているソフィ・カル。このフランスを代表するアーティストが2月2日よりペロタン東京とギャラリー小柳の2ヶ所でも個展を開催している。自伝的作品や他者へのインタビューをもとにした作品で知られるカルはどのような姿勢で作品を生み出しているのか? 写真史家の戸田昌子が来日した作家に話を聞いた。

聞き手=戸田昌子(写真史家)

ソフィ・カル Photo by Claire Dorn. ©Sophie Calle / ADAGP, Paris, 2019.
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──原美術館の「ソフィ カル─限局性激痛」は、1999年の初展示から20年が経過して行われた再展示になります。同作は、84年にあなたが奨学金をもらって初来日した際の経験をもとに制作されたものですが、作品のキャプションには「一番行きたくない国として日本を選んだ」とありました。その印象は変化しましたか?

 「行きたくない」という気持ちはずいぶん前に変わってしまいました。2回目に来日したときにはもう好きになり、いまでは一番行きたい国になっています。まったく逆ですね(笑)。

──なぜ日本に行きたくなかったのでしょうか?

 日本という国は「理解できない」と思っていたからです。例えば当時のフランスには日本映画のファンがたくさんいました。私も「美しいな」とは思いましたが、琴線に触れるものはありませんでした。それに、私にとっては言葉がわかることが重要なのです。言葉がまったくわからない状況は難しい。それが「日本に行きたくない」と思った理由です。

──あなたにとっては「意味」が重要なのですね。

 私はその土地を歩いていて、ふと耳に入るフレーズに大きな影響を与えられることがあります。しかし日本では言葉がわからないので、耳に入るフレーズがまったく理解できない。そうした状況は、私にとって非常に難しいことが予想されていました。

「ソフィ カル ― 限局性激痛」原美術館コレクションより 展示風景 ©Sophie Calle / ADAGP Paris and JASPAR Tokyo, 2018 Photo by Keizo Kioku

──私たちは通常、ソフィ・カルをヴィジュアル・アーティスト(photographe-plasticienne)と定義していますが、それはつねにあなたの作品すべてを説明できると思いますか?

 たぶんほか他の呼び方もあるでしょうが、それは私にとってはどちらでもよく、みなさんが決めることです。でも「アーティスト」が一番しっくりくるかもしれません。

──あなたの作品の多くは「ゲーム」と呼ばれる、ルールにのっとったパフォーマンスに焦点があたっているコンセプチュアルな作品だと思います。しかしそれ以上に、あなたは「記録」そのもの、写真や手紙やメモなどの記録の物質性に惹かれていると思います。あなたがそのように記録にこだわる意図はなんですか?

 当初はそうでもなかったのですが、次第に「写真だけだと足りない」「文章だけだと足りない」と感じるようになっていったのです。写真と文章、互いが互いを必要としている。だから自然といまのスタイルになっていきました。もしかしたら自分の写真や文章のクオリティに自信がなかったのかもしれませんが......。渋谷のスクランブル交差点で上映された《海を見る》は映像ですが(*1)、それ以外は写真+文章というスタイルになっています。私の父は美術品の収集家で、母が文学人だったんですね。だから両親の気を引きたいという思いがあったのかもしれません。父のために写真を、母のために文章を、というふうに。

ソフィ・カル Mes Mains 2018 デジタル写真 27x42cm ©Sophie Calle / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2019.

──あなたの写真で示されていることと文章で示されていることの間には、いつも少しズレが生じているように感じます。それは意図的な行いなのでしょうか?

 意図的ではありません。そうしたことは考えず、直感的に制作していますから。ルールはクリアですが、制作は直感的なのです。

──写真はあなたの「ゲーム」のなかで、特別な位置を占めていますか?

 プロジェクトによりますね。ある作品では写真は二次的なものですし、ある作品では前面に出ることもある。例えば《プロネ・ソワン・ドゥ・ヴ-お体を大切に-》という作品は、私が書いた失恋の手紙を107人の女性に読んでもらうというプロジェクトですが、ここではテキスト(手紙)が私の手元を離れて他の女性たちのもとに行きました。だからこのプロジェクトでは写真がより重要なものになりました。いっぽうで《海を見る》は音がなく、視覚的なイメージが強い作品です。また今回のペロタン東京で展示している作品は、テキストを追うようにビジュアルが添えられています。このように、プロジェクトによって写真が占める位置は変わってくるのです。

ソフィ・カル 海を見る 2011 Courtesy the artist and Perrotin

──あなたの作品では、写真はいつも「証拠物件」のようなものとして扱われています。それと同時に、(写真が)決して真実ではないということも示されてる。それはあなたが発しようとしているメッセージなのでしょうか?

 まず、私は「メッセージ」というものは送っていません。すべて現実で起こったことではある、しかしすべてが真実ではないとも言えます。

──あなたの作品の重要な要素として、「感情(emotion)」があると思います。「死」「別れ」「喪失」などの経験が引き起こす強い感情がきっかけになって作品が制作されていることが多いですね。そうした「感情」へのコンセプチュアルなアプローチと、生の感情それ自体との間のバランスについて話していただけますか? 激しい感情を経験するあなた自身と、そうした感情をもとに作品をつくるあなた自身の関係はどうなっていますか?

 前提として、私の作品には2つのタイプがあります。ひとつは私が主要なアクターであるもの。もうひとつは《海を見る》など私がアクターではないものです。後者について、もちろん感情を動かされはしますが、私の人生そのものに関わっているプロジェクトではありません。私のプライベートから発生したものではないのです。そういう意味では、皆さんと同じように、対象に対して一定の距離感を保っています。

 いっぽう前者は、一歩脇に逸れて自分の出来事を見ることを心がけています。だから母の死も冷静に見ることができる。そうした一歩脇に逸れる行為は、(私にとって)結果的にセラピーとしての効果を生んでいるのかもしれませんね。

ソフィ・カル「Ma mère, mon chat, mon père, dans cet ordre(私の母、私の猫、私の父、この順に)」(ペロタン東京)の会場風景 © Sophie Calle / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2019.Courtesy Perrotin Photo by Kei Okano

──「結果的に」ということは、原美術館で展示されている《限局性激痛》も、セラピーを目指していたわけではないということですね?

 私の目的は「壁」、そして「本」です。自分が治癒されようというものではありません。《限局性激痛》について言うと、当時(1984年)の私は泣いてばかりいたのです。だからみんなが「どうしたの?」と声をかけてくれる。そうして話を聞いてもらうことを繰り返すことで、苦痛が癒されていくことに気づいたのです。そこから15年を経て作品化しました。

──《限局性激痛》で癒される人は多いと思います。しかし、癒されることで罪悪感を覚える、つまり他人の不幸を知ることで癒されていいのかと感じる人もいるでしょう。そういった作品の受け止めについてはどう思われますか?

 何も罪悪感を感じる必要はありません。他者の不幸より自分の不幸のほうが軽いと思えるのならば。例えば私がある日、自分の人生に起きたことについて不平不満を募らせ、泣いて話したとしましょう。その後、外に出たらそこには死にかけている人がいる。そうしたとき、私は泣いていた自分を恥じるでしょう。でもそこに罪悪感はないと思います。

 《限局性激痛》もそうですが、人間にとって「個人的な苦痛」はより苦しいものであると思うのです。例えば日々の生活が苦しい人がいたとします。でもその日々の苦しさよりも「ある日その人の奥さんが出ていってしまう」というような個人的な出来事のほうがより苦しいと感じると思います。

原美術館「ソフィカル―限局性激痛」(1999-2000)展示風景 © Sophie Calle / ADAGP, Paris 2018 and JASPAR, Tokyo, 2018

──日本のHiromixや長島有里枝の世代の女性写真家に対して関心がありますか? この世代の日本の女性写真家たちがもつ「親密さ」へのアプローチと、あなた自身のアプローチには親近性があると思いますか?

 残念ながらその方たちのことは知らないんです。私は他人に教えることもしていませんし、アート関係の雑誌なども読んでいません。作品制作をしていないときは、アートではない分野に出ることを意識していますので、展覧会に行くよりも観劇するほうが多いんです。週3〜4回見ることもありますよ。私が知っているアーティストたちは、仕事を通じて知り合った人たちばかりで、あえて自分から調べたりもしていません。

──ジャーナリストのエルヴェ・ギベール(1955〜91)があなたのことを「男性経験豊富」と形容したこともあります。あなたは、あなた自身の美しさと、「ビッチであること」について、どのように考えてきましたか。また、そのことは、あなたのアーティストとしてのアイデンティティにとってどのような意味を持つのでしょうか?

 エルヴェは非常に挑発的な人で、話を盛るんです(笑)。私のことをそう表現するのはかまいませんが、そこには彼のおふざけがありますね。彼こそ「ゲーム」という感覚がある人で、そこにはエルヴェと私の間に「ゲーム」があったのだと思います。彼はジャーナリストである前に作家でしたからね。

──エルヴェにそのように表現される理由は、おそらくあなたが自分の作品の中に他者を招き入れることが多いからなのではと思います。そうした他者への好奇心はあなたの作品にとって重要なことですか?

 好奇心はそうですが、同時に私は距離感も大事にしています。追跡する人と会話をしませんし、部屋に招く人とも家族同様の会話をするわけではありません。一定の距離感がそこにあるわけですね。母のようによく知っている人物でさえ、やはり距離を置いて扱っています。

ソフィ・カル 限局性激痛 1984-2003 © Sophie Calle / ADAGP, Paris 2018 and JASPAR, Tokyo, 2018

──本来なら見えない人の心や秘密などに興味があるのでしょうか?

 これは私の作品の核となる部分でもありますが、私はブログも書いていませんしFacebookもやっていません。つまり、私は人生を開けっぴろげにしていないんです。テキストとイメージで作品を構成しており、ときには私自身の生活を作品にしますが、本当の私の生活は秘密なんですね。例えば失恋や母の死などは、誰にでも起こりうる平凡なことなのです。それは秘密ではありません。

──しかしこちらからは、あなたが秘密を開示しているように見えます。

 だったら私の作品は成功している、ということですね!

──SNSを通じて、親密な写真や、ナルシシズムの写真、盗撮の写真などが社会に溢れるようになりました。こうした種類の写真は、あなたの作品の中でしばしば扱われてきたものです。こうした現象は、あなたの作品制作に影響を与えますか。

 私はSNSを全然見ていません。ネットもメールくらいです。拒絶しているわけではないのですが、それほど惹かれないんですね。雑誌や新聞を読んだり、人と会ったりするほうが魅力的。SNSはセクシーさが足りないのです。

──雑誌というお話が出ましたが、『リベラシオン』や『ル・モンド』などの印刷媒体は、あなたの芸術的実践において重要なツールでした。また、あなた自身も才能のあるブックメーカーです。印刷メディアは過去のものだと思いますか、あるいは可能性のあるメディアだと思いますか? また、あなたにとって重要な本を教えてください。

 印刷媒体が過去のものなのか、あるいは未来があるかのかはわかりません。私は65歳になってようやく旅行中に電子書籍を読むようになりました。新しい分野に足を踏み入れた感覚はあるのですが、いま何が起きているかを正確に知らないので語ることはできません。

 映画や男性と同じで、重要な本を「ひとつ」挙げてくれと言われると難しいですね。でも私の人生の「たった1匹の」猫ならここ(ペロタン東京)にいます(*2)。

ソフィ・カル「Ma mère, mon chat, mon père, dans cet ordre(私の母、私の猫、私の父、この順に)」(ペロタン東京)の会場風景 © Sophie Calle / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2019.Courtesy Perrotin Photo by Kei Okano

──あなたは作品のなかで、民俗学者のように数多くのインタビューをしてきたと思います。インタビューされることと、インタビューすることではどちらが好きですか。

 インタビューすることですね。私が誰かをインタビューするのはなんらかのプロジェクトのためですから。そしてそのプロジェクトは私をどこかに連れて行ってくれます。何かをつくり出そうとしているときにこそインタビューするのです。インタビューはクリエイティブな行為でしょ?

 

*1──2月3日〜9日の毎日深夜0時〜1時にかけ、渋谷スクランブル交差点の4面街頭ビジョンで《海を見る》が上映された。
*2──ペロタン東京の個展「Ma mère, mon chat, mon père, dans cet ordre(私の母、私の猫、私の父、この順に)」では、2014年に死去したカルの愛猫・スーリーをモチーフにしたシリーズ「Souris Calle(スーリー・カル)」が日本初公開されている。