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REVIEW - 2018.8.2

可能性としてのドローイングと成果としてのペインティング。
gnckが見た「絵と、  vol.2 藤城嘘」展

東京国立近代美術館の蔵屋美香が通年を通してキュレーターを務める「絵と、」シリーズ。「絵と」現実を、絵画ならではの方法で切り結ぶ作家たちをラインナップした本シリーズの第2弾である「絵と、  vol.2 藤城嘘」展が、東京・東神田のgallery αMで開催されている。藤城の大作が並ぶ本展を、キャラ・画像・インターネット研究のgnckがレビューする。

文=gnck

会場風景。中央は《オルガナイズ/ORGANEYES》(2018) 撮影=木奥惠三

会場風景。中央は《オルガナイズ/ORGANEYES》(2018) 撮影=木奥惠三

「絵と、  vol.2 藤城嘘」展
藤城嘘と「ひらがな化」
gnck 評

 本展キュレーターの蔵屋美香は、展覧会に寄せたテキストの中で、「藤城嘘の作品を前に『主題のせいでポップの芸術(わざ)が目に入ってこない』という事態をわたしたちは回避しなければならない」とする。いわく、藤城の作品はキャラクターの表象に注意を引きつけられがちであるが、垂直性や水平性、そしてグリッドが存在しているという。

 ここで蔵屋は、「藤城の作品をいかにも絵画らしい手法で分析するのは、なにもサブカルを芸術の領域に引き寄せ、権威付けるためではない」とするのだが、ならば藤城作品におけるグリッドや水平線の登場は、凡庸な構図として指摘しなければなるまい。それらの手法によっては、藤城嘘の可能性であるドローイングの成果をペインティングへと翻訳するという仕事は、まだ成功していないのだから。

 藤城嘘の可能性はドローイングにある。そしてその線の源流は、カオス*ラウンジの最初の展覧会やそれに伴って開催された「模造紙オフ」(*)において、どのような質の絵が選び取られていったのかを糸口に考えることができる。 藤城嘘が開始したカオス*ラウンジの展覧会は、つねづね「ゴミと虹色」にあふれる。つまり、物量と色相の幅によってインスタレーションとしての強度を高めている。これは、オーセンティックな形式からこぼれてしまう、「フラジャイルだが濃密な表現をする才能たち」に、展示としてのパワーを持たせるために呼び出されているものであり、彼らのイメージソースであるキャラの図像を、雑誌やプロジェクションによってあふれさせるという方法がとられていた。

 藤城の絵画にも基本的にはこの「ゴミと虹色」問題は潜んでいるが、 それがいままでの絵画に対する「別の可能性」を示していないかぎり、ただの「賑やかし」で終わってしまう。

 今回の展示において、藤城嘘の作品が、絵画の別の可能性を提示せしめたのかと言えば、表層のモチーフの新奇性に比べて構図における無意識の守旧性が現れてしまっているという点で、蔵屋の指摘はむしろネガティブな意味を持つ。

展示風景より左から《オルガナイズ/ORGANEYES》(2018)、《バベルのメン》(2017) 撮影=木奥惠三

 藤城は同展のアーティストトークにおいて「初めに地平線を引いてしまう」と言うのだが、それは言ってみれば幼稚園児や小学生の絵と同じということだ。その児童的な空間認識は、それはそれとして可能性があることは無論なのだが、それを「新たなる絵画空間の形成」に応用していくという気概が作家には足りない。グリッドに従って描かれる曼荼羅構図などは才能が枯れ切った「大家」がやればよいことであって、若く才能がある作家のするべき仕事ではない。

 確かに藤城が用いるアニメアイや書き文字といった要素は、絵画を構成するための要素としては強力すぎる。それらの強力さや魅力は、彼のドローイングを見ればすぐさまわかるだろう。

 あるいは、展覧会「カオス*イグザイル」(2011)での彼の壁画の仕事などを見ても、成功しているように見える。それは、アニメアイや書き文字、更にはグリッドが持つアイキャッチの強さを上手く視線誘導の要素として、強固なフレームを持たない壁面において機能させることができているためなのではないか。それを絵画に落とし込むには、もう一段階踏み込みが足りないのだ。

 かわいさを強調するためにキャラが横長に変形され、いっぽうかっこよさの表現のために、顔が縦長に強調されて描かれることに気づくまでは、作家の感度の良さの現れだろう。しかし、それはキャンバスの構造に変更を迫るほどのものではないのだ。それは、もともとあったはずの「イケメンキャラの顎長すぎだろ」という「突飛さ」をうまく翻訳しきれているものではないように思える。かつて村上隆は、デフォルメに潜む性的な欲望を、あまりに露骨で戯画的なかたちで表現して見せたが、藤城の場合デフォルメに潜む欲望を示すには、問うべき前提を問い切れていないだろう。

 「ひらがな」に対しての注目も、作家としての感度の現れであるが、「ひらがなシリーズ」はひらがなそのものを主題化しようとして失敗している。キャラも文字もcharacterであるという言葉遊びだけで、作品としての批評性が担保されるわけではないのだ。むしろ藤城が注目すべきなのは、「漢字が崩れてひらがなになる」という「ひらがな化」とでも呼ぶべき現象を絵画化することなのではないか。

 それはすでに作家の過去作に現れている。例えば、トーク中で示された過去作である「pixiv FESTA vol.1」(2009)での展示作品《ネオなかよし》は、少女マンガ雑誌『なかよし』を絵具で模写した作品なのだが、ここに強固な色彩設計やグリッドを持った(モダンデザインからすればバッドデザインではあるが)雑誌の表紙を「模写」によって微妙に脱臼するという仕事がすでに見受けられる。

 カオス*ラウンジの「ファンアート」「二次創作」への注目は様々なレベルがあるが、模造紙オフで「有効に機能する」線の質は、必ずしも技量的に「上手い」線ではないことを、藤城は理解していたはずだ。むしろ「上手くはないが、モチーフが持つ魅力の芯はとらえる絶妙な拙さ」こそが、二次創作をもとに次のクリエイションが生み出されるn次創作的環境では有効な描線であり、それが新たなる美意識であると知っていたのではないか。

 「キャラという強固な記号を持つ存在を、絶妙な拙さで脱臼する」のは「漢字という強固な記号を持つ存在を、絶妙なつたなさで脱臼する」こととパラレルなのだ。藤城のドローイングにはその「絶妙な拙さ」=「ひらがな化」があるが、ペインティングに「ひらがな化」が起きていない。彼が真に彼の作品を完成させるのは、ペインティングを「ひらがな化」させたときなのではないだろうか。

脚注
*——twiitterなどでゲリラ的に参加者を募り、カラオケボックスや展覧会場に模造紙と画材を持ち込んで「お絵かき」を行うオフ会。ひとつの画面に多様な参加者が思わぬかたちで触発しあうという、インターネット的状況を現実の展覧会に召喚しようとしたカオス*ラウンジを象徴するイベントでもある