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2018.10.10

カオス*ラウンジからキャラクターまで、ひとりの画家が求める「ポップ」の本当。
藤城嘘インタビュー

インターネットカルチャーをバックグラウンドに、多種多様な「キャラクター」をモチーフとしたドローイングや絵画作品を制作してきた藤城噓。近年は都市文化や自然科学から着想を得た作品も手がけるなど、新たな試みを展開し続けている。いっぽう、大学在学中の2009年に、美術を通して社会実験を行う「カオス*ラウンジ」のメンバーとしても精力的に活動してきた藤城。ギャラリーαMで展示を行った作家にこれまでの軌跡と美術館、共同体と個人の活動の関係性について話を聞いた。

藤城噓 撮影=佐藤麻優子
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現代美術と出会った高校時代がはじまり

——藤城さんは、大学時代にカオス*ラウンジの前身となるポストポッパーズのメンバーとしてスタートし、それから現在まで、グループとしての活動と個人としての作品発表を並行して行っています。今日は、それらの活動の関係性と藤城さんの美術への考えを広くお聞きしたいと思います。まず、藤城さんはどんな幼少期を過ごされていたのでしょうか?

 記憶する限りでは5歳くらいから、人並みにお絵描きは好きでした。幼少期は長期入院をしていて、外で遊ぶよりも室内で手を動かすことのほうが多かったです。

——美術を意識しはじめたのはいつ頃ですか?

 高校時代、美術予備校に通うようになってからです。高校1年生の頃に自然な流れで美大を目指して夏期講習に行って、2年生の頃から本格的に予備校に通うようになりました。ただ、それと並行して自然科学や環境問題にも興味があって、いまも趣味レベルでは微生物や植物、鉱物などにも関心があるので、もし美術系に進んでいなかったら農大とかを目指していたかもしれませんね。

2007年、高校2年生の藤城嘘。マンガ雑誌を土に埋める作品を制作中

——「自然な流れで美大を目指した」ということですが、美術が身近にあるような環境だったのでしょうか?

 そういうわけではないです。ただ、母方の祖父が骨董商を営んでいたので、クリスティーズやサザビーズのオークションカタログを自宅に送ってもらっていたんです。現代美術のフィールドではどんな絵画がどのくらいの価格で売られているか、誌面を見ながら自然に学んでいた気もします。

——予備校での思い出はありますか?

 予備校の先生は会田誠さんや村上隆さんと同じ年代ということもあってか、会田さんのドキュメンタリーを講義で上映したり、当時開催していた大竹伸朗さんの「全景」展(東京都現代美術館、2006)を「全員見てきなさい」と言うような人でした。予備校の講義を通して、「いま生きているアーティストがいま考えていること」をダイレクトにアウトプットするということに興味を持ちました。

——予備校の授業を通して現代美術に関心を持ったんですね。

 はい。現代美術のグループ展に行くと、いろんなアーティストが自分のメディアで異種格闘技戦をしているような様子に興奮しました。その影響で、様々な作風が一堂に集まるような展示を自分でも企画していました。

——高校時代にはどのような展示をしていたんですか?

 いまとあまり変わっていないような気がするのですが、予備校の友だちと高校の同級生が描いた落書をかき集めてきて壁にバーッと貼るような「ラクガキ展」を企画しました。ちょっとしたドローイングでも十分に作品足りうると気づいたのは現代美術を知ってからだったので、「素人の落書きをかき集めても展示になる」みたいなことが言いたかったんだと思います。あと、自分はコンピレーションアルバムや自分だけのカタログのようなものをつくるのが好きな性格なんです。

藤城嘘が高校の学園祭で企画した「ラクガキ」展会場(2007)

——当時からキュレーションをしていたんですね。藤城さん自身はどのような作品を制作していたのでしょうか?

 当時の自分の作品を見ると、大竹伸朗さんとMr.さんと山口晃さんの作品が混ざっているような作風で、彼らに強く影響を受けたことがわかりますね。東京藝術大学が主催する「取手アートパス」の企画したアンデパンダン展に出品したり、高校3年生のときには、学園祭で自主的に個展をしたこともありました。

——学内のリアクションはどのようなものでしたか?

 周囲は「意味がわからない」といったリアクションでした。通っていた高校は、勉強に力を入れている一般的な私立の進学校だったのですが、自習時間には私だけ図書館で図録を読んだり、美術室で絵を描いたりし、すごく浮いた存在だった気がします。

キャラクターの造形が持つ可能性

——予備校と高校以外に、インターネットでの活動はいかがでしょうか? pixivがスタートしたのが2007年ということで、藤城さんの高校時代はインターネット上でSNSが台頭しはじめた時期とも重複しますね。

 はい。インターネットには同世代のイラストレーターやクリエイターがたくさんいて、彼らとも交流がありました。ただ、私の理想としては現代美術とオタク・ネットカルチャー、双方の人たちと交流ができる状況がつくれないかと思っていました。例えば当時、美大の卒業制作展に行ったとき、オタクカルチャーやネットカルチャーを作品化している人はいても、その題材はガンダムとかエヴァンゲリオン。私のリアルタイムではないし、当時放映されていたものでもないし、時間が止まってしまっているように見えたんです。

——それでは、この頃から現代美術とオタクカルチャーの融合を意識していたんですね。当時の藤城さんの作品にはすでにアニメのモチーフや、いわゆる「萌え絵」のキャラクターが見られます。

 そうですね。現代美術の世界に入っていくときに、自分がするべき表現の必然性について考えていくと、私がずっと享受してきた表象であるキャラクターを使う必要性があると思いました。キャラクターの特殊な造形にはまだ可能性があるとも考えていたんです。

——その「可能性」というのは具体的にどんなことですか?

 ネット文化のなかでのイラストレーターがやっていることと、現代美術の絵画のなかで実践されていることは分離していて、その2つの要素を使うことで、ハイブリッドで面白いことができるんじゃないかなということを考えていました。「リアルタイムのアニメの造形はなぜ絵画に反映されないんだろう?」とずっと思っていたので、人の交流的な意味でも、作品制作という側面からも、両者のアイディアが混じり合うところに可能性がありそうだ、と。

藤城嘘 無題 2008

——当時は、例えばどんなアニメがリアルタイムでしたか?

 2007年頃だと『涼宮ハルヒの憂鬱』や、そのあとの『らき☆すた』など、京都アニメーションの作品。そしてシャフトの『ひだまりスケッチ』や『ぱにぽにだっしゅ!』などが印象深かったです。キャラクターたちの造形のデフォルメ感が独特に感じられて、その造形にさらに作品の演出として色々な効果が加えられていて、この感覚をリアルタイムに絵画にしたいと思っていました。PixivやTwitter、YouTubeが登場したのが2006〜07年。そのあとはニコニコ動画も人気が出て、SNSがどんどん盛り上がっていく最初の頃だった。リアルタイム性が強い時代の美術を考えていました。

——デフォルメされたアニメキャラクターの造形にどのような魅力を感じていたのでしょうか?

 自然科学が好きな理由でもあるのですが、自分はもともと植物の有機的でシンプルなフォルムが好きで、キャラクターの造形にもそれに近いものを感じています。例えば植物の種子は一見すると無機質で生き物ではないようだけれど、生命力が感じられる。「生きている」と「死んでいる」のあいだにいるような感じがするのは、キャラクターにも似ている点なんじゃないかと。

3年ごとに変遷するテーマ

——ギャラリーαMの個展のステートメントで藤城さんは「3年ごとにテーマが変わっている」というようなことを書いていました。友人の落書きを集めた展示を行っていた高校時代の2007年を起点に、そこから2010年までの3年間は、ご自身ではどのような時代だったと考えますか?

 その3年間の大きな動きとして、私がポストポッパーズとかカオス*ラウンジをスタートさせたことがあると思います。まずその前に結成の経緯を少し話すと、大学に入ってからは、リアルの大学の友達よりもネットで知り合った同世代や大人と交流するのが楽しかったので、彼らと交流を続けていました。

 例えばTwitterが日本語のサービスを始めた直後はユーザがすごく少なくて、「秋葉原のあのカフェに行くと、Twitterの“あのアカウント”の本人がいる」みたいな感じだったんです。当時は、アニメのキャラクターをアイコンにしている人をバーッと片っ端からフォローして、そういう人たちのオフ会があると足を運んでいました。そんなふうにネットを介して知り合ったひとりが、「梅ラボ」のアカウント名で活動していた梅沢和木さんです。

「GEISAI#11」(東京流通センター、2008)でのポストポッパーズの展示風景

——どのような経緯でグループの活動をスタートさせたのでしょうか?

 ポストポッパーズ結成に際しては、梅沢さんの存在がすごく大きかったです。梅沢さんはキャラクターを解体するようなドローイング作品をつくったり、ネット上の画像を再構成するような作品をpixivで公開していて、衝撃を受けました。梅沢さんのようにシンパシーを感じる活動する人を集めて、ポストポッパーズと名付けたグループ活動を模索しはじめました。私は、自分の作品を補強するという意味でも、「同じ時代に同じこと考えてる人がこんなにいる」ということを見せたほうがいいと思っていた。グループというパッケージでちゃんと見せるということができれば、現代美術のフィールドでも活動していけるんじゃないかと考えていたんです。

——ちなみに「藤城嘘」というアーティストネームを使いはじめたはこの頃ですか?

 そうですね。名前が「嘘」だと、苗字の「藤城」の真偽も曖昧になる効果が気に入ってつけました。本名とアーティストネームで活動を分けようと思っていた時期もあったのですが、あっというまに「藤城嘘」が有名になってしまって、分ける意味が感じられなくなってしまいました。いま、自分を本名で呼ぶのは家族くらいですね。

ポストポッパーズからカオス*ラウンジへ

——2008年にスタートしたポストポッパーズはその後まもなくカオス*ラウンジへと活動形態を変えますね。

 はい。内実を言えば、ポストポッパーズは比較的少数の7〜8人でグループとしての活動を意識していたのですが、みんなまだまだ若く、現代美術の分野でやっていきたいというよりも、「発表にこだわりなく、ただつくっているほうがいい」というメンバーもやはりいて、私が目指したいものには関心を持ってくれなかったりしたんですね。そこで、グループで活動するという部分で少し挫折してしまいました。カオス*ラウンジは企画と趣旨に合わせて参加メンバー選ぶスタイルをとっていますが、その動きやすさもあっていままで続けてこられた気がします。

——具体的に、ポストポッパーズからカオス*ラウンジへと転換していく流れはどのようなものだったのでしょうか?

 2009年の3月頃に「カオス*ラウンジ」と名づけたグループ展を開催したのですが、その後、梅沢さんの紹介で黒瀬陽平さんと知り合い、黒瀬さんが「カオス*ラウンジの構想は面白いから、上の世代の作家も巻き込んで、都内何ヶ所かに拡大して共同でやろう」と提案してくれました。そこから「カオス*ラウンジ2010 in 高橋コレクション日比谷」展を皮切りに、グループで大規模に活動するようになりました。

「カオス*ラウンジ」展の会場風景 2009

——そして2011〜14年です。この期間の変化はおそらく東日本大震災も関係してくるかと思うのですが、藤城さんの作品には具体的にどのような変化があったのでしょうか?

 東日本大震災を経て考えたのは、作品をつくるうえで自分の置かれている状況とか条件を考えるときに、自分のルーツをちゃんと考えたことがなかったということでした。私は、父親が香港人なんです。ただ、私は日本で生まれ育ったので日本語しか喋れないし、香港も1回しか行ったことがなく、自分が何者であるか、何も考えずにいまこの場所で暮らしていることに対しての反省が多少なりともありました。

 カオス*ラウンジのメンバーで、震災後に何度か東北を訪れるにあたって、現地の人さえ忘れていたような昔の人々の欲望や昔からあった信仰、いわゆる宗教美術を取材するようになり、キャラクターについて再考するようになりました。キャラクターと植物は似ているという話をしましたが、日本でのキャラクターの受容と神仏の受容にも通ずるところがあると知りました。

——例えばどういった点が似ているのでしょうか?

 同じ神様が日本各地にいるのですが、それでご利益が減り、パワーが分散するわけではない。「それぞれが均等にありがたい」という認識ですよね。キャラクターも、二次創作を含めて描けば描くほどパワーは変わらずありがたいものになる。そこがまず、すごく似ていると思いました。加えて、命があるかないかわからない状態のキャラクターは、別の世界とこちらの世界を行き来するような、つないでくれるような存在でもあるんですよね。そのあり方も、人間にとって聖なるものや信仰の対象とされるものに似ているな、と。

絵画のルールを壊したい

——なぜ、震災をきかっけに藤城さんのなかでキャラクターと宗教が結びついたのでしょうか?

 震災を機に、インフラや社会構造を含め様々な課題が明るみになりましたよね。そこで、過去の人々がどのような欲望を持ち、どんな祈りを捧げてきたかを調べることで、いまの問題に向き合えるのではないかと思いました。けっして日本の宗教=原点回帰やナショナリズムということではなく、いま日本と呼ばれている地で過去生きていた人が持っていた欲望や信仰がどのように表されたかを知り、そこで生まれた思想やイメージをいまどんなふうに使うことができるかな、というところです。キャラクターを消費する文化が、歴史のどこと通じ、どう違うのかを知りたい。

 あとは、震災があったうえで美術がリアクションするというときに、例えばChim↑Pomのように現場に行って被災地からメッセージを発信する、シグナル的な発信の方法と、長い時間をかけて伝えていく方法、大きく分けて2つのパターンがあると思います。演出家の高山明さん(PortB)が震災後におっしゃっていたんですけど、「私は亀甲文字みたいなものをつくりたい」と。亀甲文字みたいに、亀の甲羅の割れ目が、暗号として現れて、長い時間をかけて人に伝わっていく。私はどちらかというとそんな暗号の美術というか、記号として長く残していくことに興味があるんです。

写真手前が藤城嘘《電波少女のための水と空気》(2013) 撮影=木奥惠三

——藤城さんの作品に文字が登場するのもこの頃からですね。

 はい。幼少期から文字を書くのが好きで、同じ部首の漢字を書き並べたり、部首と部首を組み合わせて新しい漢字をつくって遊んでいました。記号も文字も英語では「character」で、自分が描いてきたのも「キャラクター」。そのつながりを意識したのも震災以降だったと思います。文字というのはキャンバスの上で強い意味を持ってしまうので、絵画ではタブー視されている側面もあるのですが、逆に書道やタイポグラフィのような規範で固められていない文字の扱いができるのではないかと思いました。感覚としてはグラフィティに近いかもしれないです。

——あえてタブーを犯し、絵画のルールを打破するために文字を意識的に取り入れたということですね。

 はい。私は絵画のことを考えるときに、テクニックやモチーフの話に終始させたくないんです。絵画を外からとらえ、どうしたらルールを壊せるかということばかりを考えるタイプなので、その傾向がキャラクターの表象や文字を絵画に入れ込むきっかけになったのかもしれません。

「生真面目な美術」に疲れている

——2017年の藤城さんの個展「ダストポップ」(ゲンロン カオス*ラウンジ五反田アトリエ)のステートメントで、「私は“生真面目な美術”に疲れています。美術という自由なメディアの中で奇抜な冒険に出かける人が減ってきているように思われます」と書いています。いまの、あるいはこれからのアートシーンに対する藤城さんの率直な意見をお聞かせください。

 まず、日本は高齢化社会で若い人がこれからもどんどん減っていき、絵画というメディアに興味を持ってもらえなくなるのでないかと勝手に思っています。ましてや現代美術の世界は日本ではとても狭いので、そこに若い人に気軽に入ってきてもらうには、「生真面目な芸術」というよりも、人々が引き込まれる画づくりをしなくてはいけないと考えています。展示である以上は人を惹きつけるアトラクションのような仕掛けがあったほうがいい。そうしたときに、やっぱりキーワードはポップ・アートなのではないかと最近思うようになりました。ポップ・アートは、ラジオやテレビなどのメディアが十分に浸透していた1950〜60年代に「それでも絵画をやっている」という意志を示していた。実際のところ現代でもあまり状況は変わっておらず、いろんなメディアを相対化するという意味での、メディアとしての絵画という観点で、まだ必要とされている。そこには実験の余地が残っていると感じます。

藤城噓

——ポップ・アートのアーティストで、具体的に大きな影響を受けたアーティストや人物はいますか?

 もちろんアンディ・ウォーホールやロイ・リキテンスタイン、ジャスパー・ジョーンズのような、ずばりポップ・アートというアーティストにも強く影響を受けましたし、キース・ヘリングのような作風も大好きです。ですが、私がいま関心があるのは、シグマー・ポルケのような主流から外れた手つきのペインターや、ミッシェル・マジュリュスのような21世紀の情報社会を見据えていたドイツのアーティストですね。ドイツのポップ・アートのあり方は少し日本と似ている気がしていて。また、日本のオタク文化と現代の思想的課題を繋げた東浩紀さんや、ともにカオス*ラウンジを運営している黒瀬陽平さんには大きな影響を受けました。制作だけを一心に取り組んでいると批評や言葉に出会う機会が少ないですし、黒瀬さんの話がきっかけに、過去の美術批評家や作家の著作に触れるようになりました。

——東さんや黒瀬さんの言葉や著作に触れることでどのような変化がありましたか?

 美術が担う役割について真摯に考え、責任を持って美術の仕事をしないと、と思うようになりました。大学生の頃は、社会に役に立つものをリアルタイムに研究している人がいるのに、「自分はどうなんだ」と社会に恐縮する感覚が強かった。いまもその感覚はあるのですが、美術の即効性のなさ、無力さを考え、引き受けながらもそこから何かをしようと思うようになりました。

カオス*ラウンジは劇団的

——それでは、2014年から現在までのお話に移ります。現在の藤城さんの関心はどこにありますか?

 東北や、瀬戸内国際芸術祭をきっかけに訪れた瀬戸内で、「境界領域」に関心を持つようになりました。近代以降を生きる自分たちは何事にも線を引き、分けて考えてしまうことが多いとは思うんですけど、1か0ではない領域に豊かさがあるんじゃないかと思っています。

藤城嘘 いわき勇魚取りグラフィティ 2016

——そうした経験や思考は、藤城さんの作品にどのようなフィードバックがあるのでしょうか?

 芸術祭や企画ごとに現地に合わせたプロジェクトを行ってきて、つねに重複的にいろんなテーマを絡めながら制作しているので、一括りにして断定するのは難しいです。ただ、クジラを描いた《いわき勇魚取りグラフィティ》(2016)は、福島県いわき市の小名浜で聞いた、捕鯨の絵巻から着想を得たので、ダイレクトな影響によるものだと言えます。地元の人も知らなかったそうなのですが、小名浜などのいわきの海沿いでは、昔捕鯨が行われていたそうなんです。そのエピソードをきっかけにクジラを調べるうちに、肉は食料になり、脂は燃料として使われるというクジラの「エネルギーの象徴」としてのあり方が面白く感じました。そういう意味では、《いわき勇魚取りグラフィティ》と、太陽をモチーフとした《とある人類の超風景-DAY-》(2012-13)は、「エネルギー」という観点からテーマがつながっています。そのいっぽうでは、クジラをキャラクター化して描いている意識もあるので、やはり自分のなかの要素と経験が線と点で錯綜的につながっているイメージです。

——カオス*ラウンジの活動と藤城さん個人の作品は分かち難い関係にあると思うのですが、カオス*ラウンジでの作品制作はどのように進めているのでしょうか? また藤城さん個人の制作とは異なる方法なのでしょうか。

 カオス*ラウンジでは最初に展示コンセプトやテーマがあり、みんなで取材をしたり本を読み合ったりするなかで自然と役割が決まり、各アーティストが役割にそった作品を自然に制作しています。展示のつくり方が劇団的・演劇的ですね。私は、ペインターとしての役割を意識しながら訪れた場所に残っていた古いイメージに直接的に接続したアイディアを出すことが多いです。

——例えばこれまでにどんな作品を制作したのでしょうか?

 「Reborn Art Festival2017」では、石巻の映画館が会場になっていたので、館内で見つけた昔のポスターの上にペインティングをしました。瀬戸内国際芸術祭でも、島の地図をモチーフとした作品を発表しました。カオス*ラウンジが行う展示では、私は全体を包括するような目線でも動いているので、全体の見取り図や展示空間内での関係性を意識した、地図のようなメタ的な絵を描くことが多いです。

絵画にはまだ可能性がある

——ギャラリーαMのステートメントで藤城さんは「絵画は最新のメディアからかけ離れているがゆえに、視覚モードの変化や記録メディアの進化に対し、常に批判し続けることができる」とも書いています。このあたりに藤城さんの絵画論のようなものが凝縮されているように思うのですが、このテキストを書くに至った経緯や真意をご説明いただけますか?

 この言葉の半分くらいはハル・フォスターの著書『第一ポップ時代』に影響を受けています。どうしても私の大きな関心のひとつにポップ・アートがあり、先ほども挙げたシグマー・ポルケの作品には現代にも応用できそうな可能性を感じるんです。マテリアルの変質など化学反応的な効果を扱いながらも、挿絵のようなイラストレーションや新聞の印刷の網点をモチーフに使用したりもしている。自然科学とポップ・アートが融合して表現されているので可能性を感じますし、私の問題意識を解消してくれるヒントがそこにありそうだと考えています。いまの社会にはVRやAIを含めいろんなテクノロジーがあるけれど、そこだけの表現だと袋小路になってしまうように見えるんです。対して、絵画上の実験にはまだ可能性と手段は残っている気もするんですよ。いまはまだあんまり具体的なことは言えないんですけど。

藤城嘘 オルガナイズ / ORGANEYES 2018

——ポップ・アートはキャラクターと等しく藤城さんの作品を貫くひとつのキーワードだということが、今日のインタビューでよくわかりました。

 最後にもう一度キャラクターの話をするならば、日本ではいまなおマンガやアニメといったポップカルチャーの力が強く、美術や芸術には目もくれないという状況がある。むろん、大衆との親和性はポップカルチャーのほうが高いのですが、ポップカルチャーと美術がある程度手を結ばないことには、両者が行き詰まってしまうと思っています。私は現代美術が好きですが、日本で現代美術を理解してもらうのはやはりハードルが高い。そこで、キャラクターの表象を通じて、オタクカルチャーやネットカルチャーにちょっとずつ現代美術的な発想や思想をしのばせていきたい。現状、美術とネット文化はまだ距離を縮めるにはハードルがたくさんあります。

——その距離はなぜできているのでしょうか?

 例えば、美術はいまだ「一点物の文化」というか、モノに宿る何かに価値を置く側面があります。アニメやマンガは真逆で、複製したものが完成された商品として流通する「複製の文化」なので、完成された複製品やイメージ自体を加工されることを嫌う傾向があるんですね。原画の転売を防ぐため、アニメーターは原画を全部シュレッダーにかけて捨てたりするという話もあるくらいで、保管場所の問題もあるにしろ、直筆画や原画に対しての距離感が美術と大きく違う。それはそれで棲み分けがあっていいのですが、アニメやマンガをはじめとした商業世界が、長期的な思想を持って表現する美術に無関心では困るし、美術界がアニメやマンガを商業的で大衆的だと決めつけて、即座に距離を取ってしまうのも困りものです。私はキャラクターという記号を借りて、イメージ上で両者に関心を持ってもらいたいと思っているんです。

——これまでのお話を聞いていると、アニメ、ネットカルチャーへの親しみと同時に、美術に対する使命感のようなものが感じられます。

 私自身がポップ・アートや近代以降のアートが好きで、そこから多くの知的興奮を得てきたので、それを受け継いでいきたいと考えています。先人の偉業を見るにつけ、「責任を持ってこの偉業を受け継ぎ、アップデートして線を結んでいかないと」と、おこがましくも使命感のようなものを抱いてしまう。ただ、それだけだと「美術のなかの美術」に閉じ込もってしまう。ジャンルレスに境界を行き来して、いろんな線を引っ張ってきてクロスさせるような状況を、これからつくっていきたいですね。