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津田大介と語る、アーティストの新しい役割。The Public Times vol.8〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜【2/2ページ】

多くの人が、議論や軋轢を嫌うようになっている

卯城 そこでどれだけ本当に雑多な感情を抱えられるのかという部分が、「津田トリエンナーレ」の醍醐味ですね。

津田 自分の本職はジャーナリストで、つまりは表現することで食べている人間であるわけです。だから当然アーティストには自由につくってもらえればいいな、と思っているわけですが、同時に全体のディレクターでもあるので、観客に対して配慮する必要もある。

 具体的には「炎上」対策をどうするか。あいちトリエンナーレで言えば、前回(2016年)にブラジル人アーティストのラウラ・リマの、実際の鳥を使った生体展示作品が炎上しました。そういう展示の方法や表現の仕方は誰にでも受け入れられるものではないし、芸術祭の規模が大きくなれば必然的に軋轢も起こり得る。ただ、そのこと自体はこれだけの規模の芸術祭では不可避なことだろうし、いちいちそういうことに対してアーティストがリスクマネジメントする必要はないと思うんですよ。そういう仕事は僕や事務局がきちんと理論武装をして、応答できる体制を整えればいいわけですから。

あいちトリエンナーレ2016でのラウラ・リマ《フーガ》展示風景

卯城 今回の津田トリエンナーレにも、ヤバいプランを出した人はいるんですか?

津田 まあ、ほとんど答えを先に言ってますが、実際に始まって一番ヤバい展開になるとしたらやはり「表現の不自由展・その後」でしょうね。もちろんそれだけでなく、政治的なタブーを扱う作品や、際どい立場の人々をテーマにしたいというアーティストもいます。ただ、アーティストに覚悟があるならこちらは止める道理はない。あとは何が問題かと言えば、事務局がクレームを恐れるので、そのへんは事務局と僕がどこまでなら許容できるのかすり合わせる作業の繰り返しという感じですね。事務局には「最悪、事務局の手に余る厄介なクレームがきたら僕のケータイ番号教えてそこにかけさせろ」と言ってます。

卯城 津田さんのケータイ(笑)。そういう関係性は大事ですよね。広島での「ピカッ」騒動時は、美術館は「作家が決めたこと」って逃げたし(笑)。

松田 クレームはある意味しょうがないですよね。普段芸術が「わからない」とか、「興味がない」という人が、作品見て急に「これは芸術じゃない!」って怒り出すことって、個人的には必要なことだとも思う。やっぱアンタにも「芸術観」があるやんけっていう......。

津田 それって、半分はその作品が成功しているってことでしょう。人の心を何かしら動かしているってことだから。ささくれであっても共感であっても、人の心を動かすのが表現ということでしょうから。

卯城 アーティスト論の話になるけれど、こないだ20代前半の藝大生と一緒に飲んでて、その子は「アートが感情を逆撫でしていい理屈がわからない」って言うんです。

 別にそれがいまの20代の「芸術観」を代表してるわけじゃないけど、なんかいまの状況へのリアリティは感じましたね。

津田 ジャーナリズムも同じ問題を抱えていますね。大学で教えるようになって10年近く経ちますが、彼らと話していて感じるのは、若い人にジャーナリズムが響かないのは、彼らはそもそも「批判する」という行為そのものが嫌だという面が大きいということです。いまの学生は僕らの頃とは比べ物にならないくらい賢くて優秀で真面目。そして、非常に寛容で多様性を認めている。でも、これは「多様性の罠」でもあるんです。彼らはLGBTも同性婚も選択的夫婦別姓もOKだけど、モリカケ問題や統計改竄も公文書隠蔽もOKなんです。厳しい言い方をすれば、自分の身に直接火の粉が降りかかってこない問題についてはなんでもOKなんです。でもそれって「多様性」か?っていう。

津田大介

 社会学者の友枝敏雄さんが高校生を対象にアンケートの定点調査をやっていて、その結果が個人的にはショックだったんですよ。例えば、「日本の文化・伝統はほかの国よりも優れている」の問いには、2001年が29.1パーセントで13年が55.7パーセント、「太平洋戦争の件で日本は謝罪すべきか」の問いには、2001年が64.5パーセントで13年が39.7パーセント。つまり、主従が逆転しているんだよね。なかでも僕が一番ショックだったのは、「校則を守ることは当然」という質問で、2001年は68.3パーセントなのに対し、13年は87.9パーセントになっている。

松田 マジすか(笑)。

津田 芸術家になるのは、(「校則を守ることは当然」と考えない)こっちの人間でしょう。もちろん、決まりを守る人が増えるのは別に悪いことではない。でも、問題なのはクリティカル・シンキングがなくなることですよ。校則は守ることは当然と答えた87.9パーセントには、そもそも校則がおかしかったらどうするんだ、という考えがない。そもそもおかしな校則は破って良いし、法律だっておかしければ変えられる。それこそが民主主義の本質でしょう。僕はいまの若い人にはとても期待していますし、実際に若者と交流しもしないで「最近の若いヤツは情けない」とかいう老害は全員早く死ね!と思ってますが、若い人に「多様性」と「現状追認」をごっちゃにしている人が多くなっている印象はありますね。

卯城 なるほど。なんかそれって「日本の」若者っぽいなとは思いますね。ウチらが高校生のときだって、そういう人はけっこうマジョリティでしたし。ただ、アートを語るときに、日本とか身近な材料がリアリティの大部分を占めちゃってるのはヤバい気がする。情報はこんなに多いのに。

 こないだニューヨークに行ってたんですが、ホイットニー美術館ではいま、8週にわたって館内でデモが行われてますよ。作品に対してじゃなく、普通にシリアやメキシコ問題で当事者の企業がスポンサーしてることへの美術館批判として行われている。それだけ美術館が公共空間として認知されてるってのも日本から見ると違和感だけど、校則どころじゃなくて、これ、美術館のルールはシカトですからね(笑)。法的にはアウトなのかもだけど、邪魔したら美術館にとっても悪いPRになるでしょ、だからセーフっていう。つまりグレーが多いんですよね。帰国日も「420Day」ってメジャーなマリファナデイで、みんな公共空間で吸いまくってたし。もちろんそれも暗黙の了解(笑)。

松田修、卯城竜太

松田 そういうグレーは、日本ではどんどん漂白されてきていますね。日本では、学校や美術館などの場がどういう場所かを試したりする前に、見切りをつけすぎるのかもしれない。で、優秀でその場を窮屈に感じる人は、その場を変えるより海外に出るんじゃないかな。

 それと、「批判しない」っていうのは、「批判されたくない」ってことの裏返しにも思える。社会の「ナイーブ化」はこれからも加速していきそうだね。それこそ「傷つく」ということにもっと過敏になるというか。ブロックや分断、クラスタ化が容易になったのも、ナイーブ化の加速要素だし。だからこそ、美術館や芸術祭には、そういった賛否の議論を生むような価値観を、ゾーニングしてでも提示する役割も担っていてほしいと思う。まぁ、僕のやる「ファリックアート」とかは、ハナから美術館でやれるなんて思ってもいないけれど(笑)。

「講」の重要性

津田 その意味で、おふたりの「あいちトリエンナーレはどこまで幅広い作品を受け入れるの?」という投げかけは、テーマ的に考えても、クリティカルな部分を突いていると思いました。

卯城 アーティストのラインナップ的には、そういう意味でもめっちゃ期待してますよ(笑)。

津田 2年前、芸術監督が僕だと発表されたとき、アート業界は賛否両論――ボロクソに言う人もすごく多かったですね。だけど、コンセプトを発表して、参加作家を公開するにつれて、「あれ、意外と通好みで良いじゃん」みたいな反応が増えていった。

 ありがたい反応ではあるんですけど、僕はその反応見てヤバいなと思ったんですね。アート好きからのお墨付きは、いわば「はみ出し」がないということでもあるから。ふたりの対談を読んでいて共感したことなんですけど、やっぱり僕はきれいなだけの多様性は嫌だし、ジェントリフィケーションもクソだと思うわけです。とはいえ、いまではアートや芸術祭が行政という権力と一体化してそのお先棒を担いでいるような状況もある。だから、あいちトリエンナーレ2019では、芸術祭がもたらすジェントリフィケーションの暴力性や欺瞞性に対して自己言及的に触れる作品も入れられるといいなと思ってます。うまくできるかどうかは蓋を開けてみないとわからないですが......。

あいちトリエンナーレ2019参加作家である毒山凡太朗の《君之代-斉唱-》 (2019) ©BontaroDOKUYAMA

松田 その意味では、僕のファリックアート云々の話も、べつに美術館とインディペンデントなシーンを分けたいわけじゃなくて、その間をつないだり、行ったり来たりするようなほうがいい、って話なんですよね。

津田 おそらく二人がずっと話しているのって、「公」と「個」をつなぐ中間的な存在があり得るのかということなんじゃないかと思うんですよね。あえてここでダジャレ的に投げかけをすると、「公」でも「個」でもなく、それって頼母子講とかの「講」――コミュニティとしての「講」が鍵になるんじゃないかと。

 東北を取材すると、いまも大昔に生まれて、その子孫しか入れない「講」が残っていて役割を果たしている。アートコレクティヴがいま注目される理由も、それと無関係ではないだろうし、アートとパブリックの関係が強まるなかで、その対抗軸や媒介になり得るものとして、コミュニティとしての「講」が求められているんじゃないかな。

松田 なるほど。議論を呼ぶエクストリームなアーティストと、ナイーブになりすぎた社会とを、組織的な「講」が結ぶってのは、理想的な話ですね。それが津田さんにとっては、美術業界にあまりしがらみのない門外漢が率いることで、中立的な立場から行える「あいちトリエンナーレ」であって、手法的には観客のクレームなどへの理論武装の準備や、外から見た美術業界への提言だったりすると。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるCIR(調査報道センター)の《The Box》(2014) Director: Michael Schiller Photo by The Center for Investigative Reporting

あいちトリエンナーレは、美術業界への長期潜入取材

津田 芸術監督を任されてからはじめは悩んだんですよ。美術業界にしても、行政の公務員という存在にしろ、あまりにも自分が仕事をしてきたメディア業界と文化が違うから。でも途中で「自分のつくりたい雑誌をつくれば良いんだ」って思うようになってから楽になりました。僕が編集長で、いろんなアーティストを呼んで台割りを立てて、「情の時代」という特集をつくればいい。冒頭はインスタ映えするグラビアから始まって、巻末にはピリリとするコラムもある。特集本体には読み応えのある政治的なオピニオン記事もあれば、ほかに柔らかいコラムもある。そんな風に右も左も、硬も軟も含められるようなバランス感覚で、内容を考えています。

 もともと僕みたいな門外漢がなぜ呼ばれたかといえば、アートの業界に外から刺激を与えてくれってことでしょう。実際、初代芸術監督の建畠晢さんはそのことを公言されてますよね(*)。「あるジャンルの専門家を育成するには、そのプロセスにおいて出来る限り他のジャンルのイベントのキュレイションなりプロデュースなりを、短期間であっても経験させておくことが望ましい」「次世代の柔軟な発想をもつ“専門家”たちが、スーパー芸術監督として羽ばたく日を楽しみに待ちたい」と。

津田大介

 建畠さんの言う「専門家」とは、キュレーターのことを指しているので、つまり、僕は咬ませ犬として来ているわけですよ(笑)。その役割は自覚していますし、実際自分は美術業界に何のしがらみもないから、いくら嫌われてもかまわないと思っています。悔いが残らないよう思い切ってやるしかないなと。

 と同時に、もう少しメタな視点から言えば、僕の本業はジャーナリストなので、準備期間も含めたこの3年間は、一種の美術業界や行政の巨大文化事業への長期潜入取材とも言えるんです。世間の常識とはまるで違う力学で動く、不思議な世界への潜入取材。正直、困惑したり、腹が立つこともかなり多いわけですが、そこで学んだことはきちんと業界にお返ししないとな、と思ってます。

松田 そんな津田さんが、アーティストに期待することはなんですか?

津田 やっぱり、僕らが見えないものを見えるようにしてくれるということですね。今回の参加作家のジェームズ・ブライドルなんかは、普段はジャーナリストとしても活動しています。取材をしてエビデンスを取って、「WIRED」なんかにルポのような記事も書いている。そういうジャーナリズムと現代美術の距離の近さって、海外では当たり前なんですよね。でも、日本でアートとジャーナリズムの境界線上でそうした活動を自覚的にできているのって、宇川直宏さんのDOMMUNEとかChim↑Pomぐらいじゃないですか。ほかにいるのかもしれないけど、なかなか自分の視界には入ってこない。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるジェームズ・ブライドルの《ドローン・シャドー002》(2012、イスタンブール、トルコ)

 僕がアーティストやキュレーターと一緒にリサーチしていて思うのは、アーティストはジャーナリストや報道からリサーチの方法を学ぶべきということですね。反対に、ジャーナリストや報道側はアーティストから発想の仕方やコミュニケーションのプロトコルを学ぶべきだと思います。お互いがお互いの弱い部分を学ぶことでそれぞれの質が高まっていくはずなので、トリエンナーレでそのあたりを積極的に混ぜられれば。

松田 たしかにアーティストのコミュニケーションのやり方は、我流で面白いものが多いですね。Chim↑Pomも、基本海外でオフィシャルなガイドは雇わないとかね。

卯城 ガイドにコミュニケーションを任せて、上手くいった試しがない(笑)。だから、自分たちで面白そうな場所を探して直接行ってみる。次に、ウチらと相性の良い現地の人を見つけて、現地におけるコミュニケーションの方法を学ぶって感じ。

津田 僕がChim↑Pomを良いと思うのは、キャプションも含めて、アートに関心のない人もきちんと巻き込もうとしていること。それは雑多な「公」の話にもつながる。美術館に行くと、ポエムみたいなキャプションが多いじゃないですか。僕は、あれが本当に嫌で嫌で仕方がないんです(笑)。結局最後まで読んでもわからない説明添えるぐらいだったら、作品名だけにしてくれと。

 今回はラーニングチームがいるので、中学生が読んでも理解できるようなキャプションをつくろうとしているんですけど、キュレーター陣は納得しかねる部分もあるようで......。このへんのバランスは難しいですね。

松田 キュレーターの人たちは、たぶんいろんな背景を踏まえてトリエンナーレが行われている、という風に見てもらいたいんでしょうね。そもそも美術の世界って、何かを知らないってことを言いづらい雰囲気があるし。

卯城 うちらの話してきた大正の前衛美術もそうだもんね。キュレーターの人たちとかアート関係者にその話をすると、明らかに何も知らなそうなのに、「あの人が詳しいよ」とか言って、話を逸らそうとする人も何人かいた(笑)。

津田 最初に「アート番外地」と言ったのもそういうことで、二人はとても例外的で、一般的な現代美術の業界はすごく閉じていると思いますね。人間関係的にも慣習的にも。美術の人が言う「パブリック」って、美術の世界での「パブリック」でしかないように僕なんかからは見える。自分の普段の仕事はできるだけ間口を広く、わかりやすく何かを人に伝えることだから、そういう自分なりの問題意識をパブリックにつなげていく方法論を美術業界とうまいかたちで共有できればとは思いますね。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるアイシェ・エルクメンの《On Water》(2017、ドクメンタでの展示風景) Photo by Roman Mensing/Münster

「公づくり」という、アーティストの新しい役割

——卯城さんと松田さんは、今回、津田さんと話してみていかがでしたか?

卯城 大きい社会における「公」のあり方が変わるなかで、美術業界っていう「公」自体も変わらないといけないところにきているのは、あらためて感じた。そのとき、津田さんはアーティストには比較的自由にやってほしいって言ってたけど、アーティストもそれぞれ「個」として変化しないといけないと思っていて。いままで通りの普遍的な「個」のエクストリームの振り幅って、岡本太郎とかネオダダとか会田(誠)さん路線というか、やっぱり「個の時代」が生み出したスター観としての意味合いが強い。それはアーティスト像としてベストだけど、「公の時代」に生まれた若手はもうそうもいかないでしょ。

 最近の一連の騒動に対する(石野)卓球のツイッターは痛快だったけど、若い頃の電気グルーヴが出てるテレビ番組をYouTubeであらためてみたら、ヌードもセクハラもなんでもありだからね(笑)。そういう(時代の)土壌が産んだ「個」のエクストリームなわけで。神聖かまってちゃんのの子以来、メインストリームからはそんな存在感持った人は消えた印象がある。

津田 だからと言って、アーティストがみんなSEA(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)に走ればいい、って話でもないですしね。

卯城 そうそう。会田さんに匹敵する「個」の概念をこの時代にどう生み出すか。そのインパクトを持ちつつ、アーティスト像を新しく解釈しないといけない。その実験こそが、たぶん「公の時代」の社会における「個」のニュータイプの実践なんだろうなと。

松田 そうだね。僕が津田さんの話を聞いていて気になったのは、社会が議論や摩擦をとにかく避けるように、雑多な感情をブロックし続けるとどうなるかってことで。その雑多性の漂白は、その国のアーティストの種類が減るってことにつながるんじゃないかと思う。社会全体で、そういう危機感を持つべきなんじゃないかな。

 そのうえで、僕はやはりふざけたいんですよね(笑)。絶望を前にしてふざけられないと、僕はもう狂うしかないから。その舞台は僕はどこでも良いと思っていて、芸術祭でもネットでも、もっといろいろやれることがあると思う。

卯城 いまみんな、知らず知らずのうちにキュレーションや公共空間の中で、取り替え可能な「個」になろうとしてるでしょ。そこから生まれる「公」の未来図やかたちって、かなり全体主義に近くなるんですよね。

津田 まったくそのとおりで、もうすでにこの社会は、20世紀とは異なるかたちのファシズムに突入してると思いますよ。権威主義国でもないこの国で9割近くの人間が「ルールは守らなきゃ」って思っている。端的に言って気持ち悪くないですか? そうやって、議論や政治性など、異質なものが漂白されたディストピアになりつつある日本の美術業界に何が必要かと言えば、それはアンデパンダン展的なものではなくて、日本版ドクメンタなんじゃないですかね。「個」で見れば優れた作家はたくさんいるけど、それが「公」と結びつく機会があまりにも少ない。「公」が育ってないということでしょう。番外地の人たちが、テーマ性を強く打ち出しながらつくる日本版ドクメンタが見たい。

 この2年間、いろいろな展覧会を見てきて思ったのは、キュレーターが企画した展覧会より、アーティストが企画した展覧会の方が自分好みだったってことですね。それは僕が日本版ドクメンタが見たいと思っていることと関係があるんじゃないかな。

卯城 アーティストの役割って、作品はもとより、もはやそういう個を生み出す状況づくり、つまりは「公や講づくり」って側面もありますもんね。

津田 Chim↑Pomは作品よりキュレーションの方が面白い可能性すらあるよね。アーティストやアーティスト・コレクティブが自発的に集まって、まさに「公」のようにして、ドクメンタのような場所をつくる時代が来るんじゃないか。その胎動みたいなものは感じます。

8回にわたりお届けしてきた連載「The Public Times」。最終回の次回は、津田大介との鼎談を終えた卯城と松田がこれまでの連載を踏まえ、「公の時代」におけるアーティストの可能性を独自に見出し、新たなアートの姿について語る。

*ーーhttps://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/library/column-interview/30162/

編集部

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