変化する世界に向き合う
──18世紀を中心に、イギリスでは多くの良家の子息が学業の締めくくりとしてイタリアを訪れ芸術や文化を学んだ(グランドツアー)ことはよく知られています。ターナーもイタリアに渡航していますが、現地で何を得たのでしょうか。
富岡 ターナーが本格的なイタリア旅行に出るのは1819年、44歳のときで、画業が成熟してきた頃のことです。フランスとの戦争(1793〜1815)によって大陸への渡航が長く阻まれていたことに加え、多くの注文を抱えた人気画家だったので、憧れていたイタリアへの旅はなかなか叶わなかったとされています。ようやく訪れたイタリアで、明るい風土と光を見て画風が明るくなっていった、というのが通説ですが、これについてはもう少し丁寧に考える必要があると私は思っています。
ターナーのみならず、多くのイギリスの芸術家がイタリアに憧れたのは、当時のイギリスで隆盛したロマン主義の影響も大きいです。ターナーは文学にも精通しており、イタリアを訪れる以前から、ロマン派を代表する詩人のひとり、ジョージ・バイロン(1788〜1824)に傾倒していました。バイロンは『チャイルド・ハロルドの巡礼』(1812〜18)という物語詩を残しました。その第4篇(1818)はイタリアを舞台としたもので、ターナーはこういった文学作品などを通して、イタリアという土地がどのような場所なのかを知識としてすでに十分にもっていました。ですから、イタリアを本格的に訪れたときには、すでに前提となる知識は当時のロンドンの文化のなかで十分に育っていたわけです。
実際にイタリアの華やかな空を見たときの衝撃が、ターナーの画風に影響を与えたことは否定できませんし、いつもすっきりしない天気のロンドンで生まれたターナーにとって、明るい太陽光の下に広がる風景は大きな体験だったでしょう。ただ、晩年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832)の『色彩論』(1810、英訳1840)を読み込み、1843年には《光と色彩(ゲーテの理論)》を発表するなど色彩の研究を深めたことが、画面の明るさに寄与しているとも言われており、イタリア旅行はあくまでその要因のひとつでした。
また、当時は多くの北方ヨーロッパの芸術家がイタリアでの体験に加え、過去の絵画の研究にも大きな力を注いでいました。クロード・ロラン(1604/05頃〜1682)やニコラ・プッサン(1594〜1665)、さらにはレンブラント・ファン・レイン(1606〜1669)といった過去の巨匠たちに傾倒し、自ら新しい表現をつくり出すというよりも、巨匠たちの絵を自らのなかで消化し、表現へつなげていくというアプローチをとっていました。
このように、ターナーがロマン主義の画家である、という評価は正しいのですが、それだけではなかったということも留意したいポイントです。ロマン主義については、よく「自分の感情や内面を表現することに重きを置いた」という説明がされます。しかし、ターナーは自分の感情を風景に託して描いたというよりは、むしろ産業革命を経て世界の姿が人間の力によって大きく変えられるという変容をどのように捉えればいいのか、ということを表現しようとしていました。ロマン主義の定義に収まりきらないところこそが、ターナーという画家を考えるうえで重要な観点になってくるのです。
──当時のイギリスは世界最大の商業都市であるロンドンを擁する巨大帝国でした。いっぽうイタリアはかつてのローマ帝国の栄華を伝える遺跡は多くとも、近代化という観点ではイギリスに対して遅れていたはずです。この両国のギャップを、ターナーはどのように意識していたのでしょうか?
富岡 当時のイギリスは世界中に植民地を持ち、「陽の沈まぬ帝国」として、国民全体が高揚感と「自分たちが世界の中心にいる」という自負心に包まれていました。いっぽうで、ターナーがイタリアに惹かれた理由のひとつに、かつて古代ローマが栄華を誇った土地に、同時代には多くの遺跡が残されている、という点がありました。これはバイロンをはじめとする文学者にも共通する視点ですが、つまりターナーは「明るい空を描きながらも、いずれは暗くなる」という意識を抱いていたのだと思います。当時栄華を極めているイギリスも、いずれはイタリアのように衰退していくのではないのか、という視点があったのですね。ターナーは1851年に世を去りますが、その後アメリカが台頭し、世界の覇権は20世紀にかけてアメリカへと移っていきました。
──ターナーが強い関心を寄せていた、産業革命以降の風景として表れた「変革する世界」は、作品にどのように表れていると言えるでしょうか。
富岡 ターナーの芸術の真髄は「固定された不変の世界など存在しない」という世界観にあると、私は考えています。すべてのものはかたちを変え、光や空気の移ろいによっても見え方が変わっていくと考えていました。

こうした世界の変容を見つめるターナーの姿勢は、奴隷貿易と奴隷船を扱った作品にも表れています。イギリスでは1807年に奴隷貿易を禁止しましたが、国際的な奴隷貿易はその後も続いていました。ターナーはその陰惨な事実から目を背けませんでした。啓蒙思想は奴隷制を批判する思想的な基盤となるいっぽうで、人々を「文明化」し、キリスト教への改宗によって「救済」するという名目は、植民地支配を正当化するためにも利用されていました。例えば、ターナーの《奴隷船》(1840)は、1781年に奴隷船ゾング号の船員が130人あまりのアフリカ人奴隷を海に投げ捨て、のちに奴隷制度廃止の機運を高めることになった事件と結びつけて論じられてきた作品です。ターナーは、近代合理主義の中に潜む根深い矛盾や悲惨さ、暴力性を見出していたのでしょう。

また《戦艦テメレール号》(1839)は、退役して解体場へ向かう帆船を蒸気のタグボートが曳航していく様子を描いた作品です。本作については、「機械化された社会の賛美」と捉える向きもあれば、「失われゆく緩やかな時代への郷愁や寂しさの表現」とする向きもあります。しかし、ターナーのおもしろさは、賛美か否かという二項対立的な断定を避けている点にあると私は考えています。彼はどこかメタな視点に立ち、少し距離を置いて、自分を取り巻く世界が有している両義性を冷徹に見つめていました。時代の変化がもつ光と影の双方を客観的に表現しようとしたと考えられます。
──こうしたターナーの近代への眼差しは、晩年の「抽象的にも見えるぼやけた作風」に、どのようにつながっていくのでしょうか。
富岡 ターナーが晩年にかけて、初期の線描を重視した写実的な作風から抽象的になっていった、というのが一般的な説明です。ただ、これを考えるうえで、産業革命以降、人間を取り巻く時間が決定的に変わったというところが重要です。産業革命以前は、太陽が昇ると働き、沈むと休むという自然のサイクルと人間がひと続きでした。しかし機械の導入により、昼夜を問わず人間が監視され、労働させられるようになり、自然の循環とは異なる新たな時間軸が立ち現れました。私は、産業革命によって生じた時間感覚の変化も、ターナーの晩年の表現を考えるうえで重要な手がかりになると考えています。
以上のようなターナーの抽象化ですが、注意したいのは、画面には川や山、城や舟などの具象的な存在が確認できるということです。世界には絶対的な「正解のかたち」などは存在せず、気象、光、空気、そしてそれを捉える人間によって移ろい続けるということ、それこそが世界の真理だと認識していたのだと、私は解釈しています。ゆえに彼は、たんに「対象」を描くことから、自然や社会の移ろいそのものである「現象」を描くことへと至ったのではないでしょうか。この「現象」こそ、ターナーが捉えた近代の世界だったと言えます。
──ここまで、ロマン主義や産業革命以降の近代化がターナーに与えた影響について教えていただきました。そこで、ターナーに影響を与えた同時代の画家はいたのでしょうか。
富岡 ターナーは同時代の画家たちからも大変多くの影響を受けています。ひとり目は、ターナーの先輩にあたる、ロイヤル・アカデミーの初代院長を務めたジョシュア・レノルズ(1723〜1792)です。レノルズは絵画における知的な構想の重要性を説いており、ターナーは彼を非常に尊敬していました。たんに美しい風景を描くのではなく、歴史的な意味や知的な構想を重視するターナーの姿勢には、レノルズの理念との共通性が認められます。
もうひとりはターナーと同い年ながら、20代の若さで亡くなった水彩画家のトマス・ガーティン(1775〜1802)です。2人は若き日に、医師トマス・モンロー(1759〜1833)のもとで、モンローが所有していた多くの素描や水彩画を模写する仕事を一緒に行っており、友人関係にありました。ターナーは水彩画の技術や表現において、このトマス・ガーティンから多くのことを学んだと言えます。



















