ロンドンの中心で新たな時代を肌で感じながら育つ
──ターナーの生まれた18世紀後半の英国は、世界に先駆けて産業革命が起こり、植民地を拡大するとともに、世界最大の帝国としての地位を確立していく時代でした。当時のロンドンがどのような状況だったのか、まずは教えていただけますか。
ターナーは1775年、ロンドンのコヴェント・ガーデンという、ロンドンのなかでももっとも賑やかな繁華街で生まれた、生粋の都会っ子でした。当時のロンドンは、ヨーロッパ最大級の都市になっており、人口はすでに70万人、1800年頃には100万人に到達する巨大な都市でした。これはターナーの作品に宿る自然観を語るうえで、重要なポイントといえます。ターナーの生まれた場所は、政治、金融、商業の中心地であり、テムズ川にもほど近く、海運によって世界各地とつながっていました。いっぽうで人口の増加によって河川の水質はひどくなり、大気汚染も進んでいた、そういった環境で育ちました。

──ターナーはどのような家庭に生まれ、いかにして画家を志すようになったのでしょうか。
富岡 父親は理髪店を営んでおり、当時の流行だったカツラづくりの職人でもあったようです。母方の実家は精肉店でした。つまりターナーは芸術家の一族のもとに生まれたとか、両親が芸術に特別な関心があったとか、そういった出自ではありませんでした。ただ、幼い頃から絵を描くのが好きだったようで、父親がその絵を見て才能をいち早く見出し、理髪店の窓際には息子の水彩画を飾っていたと伝わっています。絵がとても上手い少年がいるということは、近所の人たちによく知られていたのでしょう。
また、彼の生家のすぐ近くには、現在に至るまでイギリスの美術の最高権威である「ロイヤル・アカデミー」がありました。ターナーはそこに所属したいという希望を、小さい頃から当然もっていたのだと思います。14歳の頃にはアカデミーに通うようになりました。
アカデミーに通う前から、ターナーの修行は始まっていました。建築家のトマス・ハードウィック(1752〜1829)の仕事を手伝い、建築素描家のトマス・モルトン(1748〜1804)からは透視図法を学んでいました。2人から建築をありのままに描く技術を徹底的に叩き込まれたことは、その後のターナーの作品を考えるうえで重要です。後期のターナーの風景画は抽象的で、何が描かれているかよくわからないと評されることもありますが、若い頃はむしろ誰よりも線描によって対象の形態を捉えることが上手かった画家として知られていました。

──当時のロイヤル・アカデミーとは、イギリスの美術界においてどのような場所だったのでしょうか。
富岡 イギリスの画家の多くは、ロイヤル・アカデミーを目指し、そこで権威を得ることが非常に重要でした。例えばフランスの印象派のようにアカデミーから距離を置いた場所で評価されるということはイギリスでは稀で、アカデミーに所属することで初めて芸術家としての地位を固めることができたのです。
ロイヤル・アカデミーの設立は1768年、これは例えばフランスやイタリアのアカデミーと比べると後発です。設立当初は歴史画をヒエラルキーの頂点としていて、その次に肖像画があり、風景画や静物画はさらに低い位置づけでした。しかし、貴族が自分たちの肖像を描かせるという需要が高く、肖像画は流行っていましたし、風景画も貴族の邸宅や庭園を描かせるジャンルとして人気がありました。アカデミーの建前としては歴史画が最高峰でしたが、ほかのジャンルの需要も多くあった。この建前と需要のギャップがおもしろいところだと思います。
ロイヤル・アカデミーは教育機関であると同時に、芸術家の協会としての機能もありました。ただし正会員になることは非常に難しく、卒業すれば正会員になれるというわけではありません。例えばターナーのライバルであるジョン・コンスタブル(1776〜1837)のように、50代になってからやっと正会員として認められるようなケースもありました。
ターナーの場合は、若い頃から高い評価を受けていました。准会員になれる最低年齢であった24歳で准会員となり、26歳という若さで正会員に昇格しています。ターナーが若いときからいかに高く評価されていた画家だったか、おわかりいただけるかと思います。
──ターナーはアカデミーでどのようなことを学び、そして風景画を積極的に描く画家になっていったのでしょう。
富岡 ロイヤル・アカデミーが求める技術というのは、現在の日本の美術大学とも共通しており、人体の石膏像などの模写(デッサン)がまずは基本でした。人物がしっかり描けないと画家として認められません。ターナーは人物を描くのがそれほど得意ではなかったのですが、それでも人体の石膏デッサンを数多く描いて技術を高めていました。
最終的にターナーは風景画を多く描くことになりますが、ここで注意したいのは、彼が自身を風景画家ではなく「歴史風景画家」として位置づけようとしていた、と考えられることです。自分が描いているのはたんなる自然や都市を描いた風景ではなく、風景によって歴史を語り、現実の社会問題を告発し、さらには人間と自然、社会との関係性を描くこともできるものだと自負していたのだと思います。彼が独自の風景画を描き、名声を高めていくにつれて、それまでアカデミー内で位置づけの低かった風景画というジャンル全体の評価も、イギリス国内で高まっていくことになりました。

──アカデミーで学んだ後、すぐに人気を博していったターナーですが、この時代の彼の作品の特徴はなんでしょうか。
富岡 当時のイギリスでは風景の見方というものが一新されるトピックが2つありました。ひとつは絵画のような風景という「ピクチャレスク」という概念の登場です。これは滑らかで整った自然や満月のような完成された美しさとは異なり、例えば露出した岩肌の質感や、稜線が波打った荒々しい山といったものに美しさを感じるという概念で、牧師のウィリアム・ギルピン(1724〜1804)により広まった新しい美意識です。1800年前後、ターナーはこのピクチャレスクに傾倒しました。
また同じ18世紀後半には、「サブライム=崇高」という概念も美学的に理論化され、イギリス国内に広まりました。こちらはのちに政治家となるエドマンド・バーク(1729〜1797)が『崇高と美の観念の起源』(1757)で体系的に論じたもので、うっとりするような美しさではなく、見ていてぞくぞくする、命の危険を感じるような対象に魅力を感じるというものです。ターナーの描く嵐の海や断崖絶壁などは、まさにこの「崇高」を表現しようとする、新たな意識が反映されたものと言えます。



























