話が前後するが、
美術の展示を見るといつもぐったりと疲れてしまう。会場の外に出るときにわれわれを襲うのは展示の余韻や感想などではなく深い疲労だ。というより、この疲労がせめて何かの代償であってほしいと、われわれは余韻や感想をひねり出すのかもしれない。物をちゃんと見るという特殊でたいへんなことを立て続けに、規模によっては100回以上おこなうのだから疲れるのは当然のことだ。鑑賞は決断の連続であり、作品をどこから見るのか、どれくらい見て立ち去るのか、何かを見逃してはいまいかと、文字どおり後ろ髪を引かれながらわれわれは次の作品に向きなおる。
展覧会は物をちゃんと見るということをさせる装置であり、広報やステートメントが文化的なわれわれを引き寄せるいっぽうで、作品やキャプションの配置は一定の見かたを誘出することでわれわれをいたわる。額縁におさまった絵画が壁に架けられているということがすでに、とりあえずはその正面に立てば良いのだと、ひとつの安心を提供するものでもある。文化的な焦燥に駆られた疲労と安心のエコノミーのなかで、はじめから質は量に敗北している。これは「網羅する」ということへの幻想の解体に対応している。
とはいえ、その敗北に対して自覚的であるのはむずかしい。それぞれの展示には固有の意義があり、作品の配置には物語があり、何個目かの展示室にはソファが、長い映像作品のスクリーンの前にはビーズクッションが、感想と写真のツイートには公式アカウントや作家からのいいねとリツイートが用意されているからだ。展示における「ひととおり」の鑑賞を設定することと、展示において「ひととおり」の鑑賞がいかにして立ち上がるかを実験の対象とすることのあいだには、それこそ質的な差異がある。つまり、疲労と安心のエコノミーに乗るのか、そこから批判的な距離を取ろうとするのかという違いがそこにはある。大岩雄典の実践は後者の立場に位置づけられるだろう。
そういえば、私は大岩が参加した展示についての文章をすでに書いたことがあるかもしれない。そこでも私は、相変わらずーーと過去のことについて言うのは妙だがーービーズクッションへの愚痴を漏らしていたような気がする。現代美術における制度、制度への批判を活動の原理とする現代美術の制度、ということについて考えるとき、私は台北当代美術館でも「恵比寿映像祭2017」でも「ドクメンタ14」でも見かけた、暗い部屋の床にすでにそれ自身がくつろいでいるようなこの家具のことが思い浮かぶ。極端な弛緩、重力への最大限の妥協を形象化するものへと身を浸し映像作品を眺めることは、明るい部屋に直立不動で絵画を眺めることと対照をなしている。疲労と安心のエコノミーは硬直と弛緩の勾配に同期しないまでも、この二極の姿勢が示す可動域は、そのエコノミーを設定するときのひとつの指標となる。私は自身の疲労がいたわられていることへの怒りから、ビーズクッションのある部屋をいつも素通りしてしまう。
展示で得られる安心のかたちのひとつには、私はこれを知っている、というものがある。展示公式サイトには「イヴ・クラインのことを知ってる?」という台詞が入ったマンガのコマが掲げられている。この台詞は会場に入った鑑賞者が最初に耳にするものでもあり、そこでは知識の獲得の不可逆性が示唆される(「何かを知ることは、取り返しがつかない」)。繰り返される「言ってる意味わかる?」という問いかけは字幕で "Are you following me?" と訳されており、知っているかどうか、わかるかどうか、ついていけるかどうかという良い鑑賞と悪い鑑賞の分割をアイロニカルに誇張している。ついていくことによって展示に入るときと展示から出るときの非対称性がつくられる。「スローアクター」は入ることと出ることの非対称性についての展示だ。しかし、入口と出口(の経験)が同じものにはなりえないにしても、入ることと出ることにあるリジッドな切断を温存することなしにはその批判はなしえないのかもしれない。
話が前後するがーーしかし、いつといつで?ーー会場に足を踏み入れた私は、最初に割れた花瓶と花が床に落ちているのを目にした。落ちている、と言ったのはそれが割れていたからだが、見上げると天窓のガラスに同じ花瓶と花が載っているのが見え、あれがここに落ちたのだな、という理解が生まれる。「同じ花瓶と花」という判断のあとに、そこにある差異から前後関係が導かれる。冗長性は情報に先立つ(*1)。しかし同じであるということも想定される前後関係もフィクションであり、実際には別の花瓶と花がたんにばらばらに置かれているだけだ。鑑賞経験がたどる見るもの聞くものの順序とそこからフィクションとして構成される前後関係のあいだで鑑賞者は引き裂かれる。この懸隔が「順路」と物語の一致を前提とする「ひととおり」の鑑賞が無批判に設定される展示と大岩の「スローアクター」を分かつ。遅効性(slow-acting)という語は見る時点とわかる時点のあいだに作用する時間を意味するだろう。この「遅さ」の線は展示のいたるところに走っている。
モダニズム美学がその絵画を範例として「瞬間性」によって特徴づけられるとき、そこでは瞬間性という言葉で見る時点とわかる時点の一致が想定されていると言える(*2)。即効性(fast-acting)ですらなく「瞬効性(immediate-acting)」であるような、速度の外にある無時間との出会いが特権的な美的経験となる。2階の明るい部屋の壁に架けられキッチンが描かれた《OUTSIDE IS VIVID》の大きな画面には、ところどころにとても小さな文字が書き込まれている。ひきだしに "I FIND THE MAP" (私は地図を見つける)と、シンクには "I LOOK IN THE SINK BUT I DO NOT FIND ANYTHING" (私はシンクを覗きこんだが何も見つからない)と書かれており、何かを見つけることに関わっているらしいこの絵画を見るとき、われわれは何度も顔を近づけ、何かを探しているらしい誰かーー私?ーーの言葉を見つける。画面全体を視野に収めることのできない距離に鑑賞者を引き込むこの絵画はよく見るとーー私は文字を探していただけなのだがーーキャンバスではなく壁紙の表面を剥がした下地のうえに描かれているのが見つかる。白い絵具と思われたものは剥がされていない部分であり、画面を囲むその壁紙の肌理はそれと隣接する壁の肌理とよく似ている。
ようやく作品の話ができた。この展示は作品の話をするまでにどうしても時間がかかってしまう。「イヴ・クラインのことを知ってる?」と問いかけてきた暗い1階の音声(と英語字幕)も作品ではなく、どちらかというと展示のステートメントに近い位置づけをもっている。しかしこれも後からわかったことで、2階に置かれているハンドアウトに作品として挙げられているのは、2階にあり、かつ1階にはないものだけだったからだ。先に触れた花と花瓶は2階の床=天窓にもあり、1階のほうでそれは落ちたことになっていたが、これも作品ではない。つまり何かを踏んづけはしないかとまだ慣れない目を凝らしながら歩いた1階に作品はなく、そこにあるのは大破した什器やカーテンや砂糖や砂糖入れや芳名帳やペンやハンドアウトだけだ。それらは作品ではないので2階から落ちてしまった。落ちたから作品ではないのかもしれない。ともあれビーズクッション的なくつろぎとはほど遠くそれらは床を打ち、壊れていた。
落下とそれによる作品の選別。アクリルの箱に張られた水に浮かぶただのボールが作品であるのは、たんにそれが落下を免れたからなのだろうか。1階と2階の距離はそのままインフラとしての展示と作品の距離を表わす。大岩の実践が定位するのはこの距離のさなかであり、展示にほどこされた非作品的な操作と作品の機能はたがいにたがいの存在を正当化しあっている。ただ落ちていないだけのボールが作品であることが、落ちたものは作品ではないという展示のルールの裏返しであるように。落下というモチーフが強調される映像作品《EVENTUALLY EVEN》がなければ、展示全体を統御するこのモチーフが宙に浮いてしまうように。明確な始点を持たずループする、ベケット的な痴呆症者の独白によって進むこの作品において男の語りはたえず前後し続ける。始点に出会わなければ良い鑑賞を遂行できない作品は順路と物語の一致に結局のところ回収されてしまう。理念的で無時間的な瞬間でも規格化された単線的な持続でもなく、見始めると同時に始まり見終わると同時に終わるようなこの作品は鑑賞(をやめる)という態度そのものから「ひととおり」の鑑賞が立ち上がる。
まだ触れてさえいない、そしておそらく私が見つけてさえいない作品や仕掛けもあるが、この文章が網羅的なものである必要も感じないし、たんに「ひととおり」の鑑賞の紀行文に居直るよりは多少とも構造的な問題にせまる足がかりが得られたように思う。
いっぽうには鑑賞者の疲労への純粋に量的な配慮と、順路を物語に一致させることで提供される知識と安心の配分を調節するエコノミーがある。このとき「ひととおり」の鑑賞は良い鑑賞と悪い鑑賞の分断を呼ぶ。これはきわめて即物的に、順路に沿うかどうか、すべての作品やチャプターの導入文の前で立ち止まるかどうか、映像作品を初めから終わりまで見るかどうかといった基準によって規定される。そこにはカント的な「趣味判断」が介在する余地はない。そしてここで展示と個々のチャプターや作品の関係はきれいにツリー状の関係になる。作品の集合がチャプターをなし、チャプターの集合が展示を構成する。
他方で大岩は順路と一致しない情報の構造を導入し、見る時点とわかる時点のあいだに遅れを穿つ。目の前にあるイメージはつねによそに差し向けられ、すでに見たイメージはどの時点で思い出されるかによってその意味あいを変えてゆく。展示/作品の分割でさえ後になってからでしかわからず、時間の作用にきわめて意識的な操作がなされている。順路と物語の一致はある意味で展示空間から時間を消し去る。「何かを知ることは、取り返しがつかない」。取り返しがつかないのは、知識はブロックのように空間的に積み上がるものでなく、知識の獲得がすでに知っているものの変容をいやおうなく引き起こす時間的なプロセスだからだ。
美術は教育の対象であるだけでなく、それ自体が教育のツールでもある。ボリス・グロイスが言うようにキュレーターには「大衆への説明責任」がつきまとい、彼ら彼女らが「民主的な大衆の名において選択を行う者」であるとするなら、個々の作品の選別、配置、文脈化は教育的な効果を期待されるものとなる(*3)。「イヴ・クラインのことを知ってる?」という高飛車な問いかけを掲げつつ、入ってみれば彼の柔道への入れ込みや写真作品《虚無への飛翔》(1960)が落下というモチーフに回収され、かといってそのモチーフを扱う公的な意義はまったく示されない、ということはキュレーターには許されない。グロイスがキュレーションとインスタレーションのあいだにきっぱりと引いた分割線、つまり「象徴的な意味における公共財」を管理することと「象徴的な意味において芸術家の私有物」である空間を構築することの差異はここにも認められるだろう(*4)。キュレーターなしの個展である「スローアクター」はその意味で展示というインスタレーションであり、キュレーションというインスタレーションだ。そこでは作品の選別が作品として展示されている。
同時に、「スローアクター」は入ることと出ることの非対称性についての展示だ。しかし、入口と出口(の経験)が同じものにはなりえないにしても、入ることと出ることにあるリジッドな切断を温存することなしにはその批判はなしえないのかもしれない。《OUTSIDE IS VIVID》の画面の中心には "FIRSTLY I FIND MYSELF IN THE KITCHEN" (最初に私はキッチンにいることに気づいた=自分がキッチンにいるのを見つけた)と書かれ、《EVENTUALLY EVEN》の語り手は自身の道行きの来歴をたえず忘却している。キュレーターの責任を、入る前と出た後のことを展示と連続的にとらえることと言い換えるなら、やはりこの、最初に自分が展示にいることを見つけることから始めなければならないインスタレーションはキュラトリアルなものと鋭く対立しているだろう。キュレーターであれば、たまたま会場の駒込倉庫が2階建てだったのでこのような展示にしたと言うだけではすまされないが、芸術家はそう言ってよい(*5)。事実先ほども言ったように落下というモチーフの遡求はそこで打ち止めにされている。
これは政治的で構造的な対立であるがゆえに、たんにこの構造だけを取ってどちらが良い悪いと言うことはできない。しかしまた、その構造が展示空間を隔離することでしか実現されず、そこにわれわれを招き入れるルアー(=疑似餌)として「大岩雄典」や「イヴ・クライン」といった固有名に頼ることしかできていないのも、ここまで見てきたとおりだ。たとえ展示を通してその固有名がルアーでしかないことが暴かれたとしても、一度は欺かれること——名前に期待すること——でしかわれわれは敷居をまたいで入らず、もう一度われわれ自身を欺くこと——意味がわかったことにすること——でしか敷居をまたいで外に出ることはできない。展示内部が固有名の権威に依存しつつそれを解体する、再現なく接ぎ木された遅れによるさまよいの空間として構築されるほどに、そこから出るためにはすべての遅れを清算しなければならないのだ(*6)。落下によって位置エネルギーが均衡を取り戻すように。
その均衡、その「落とし所」がそれぞれの鑑賞者の「ひととおり」であり、たしかにそこには疲労をいたわりながら単一の良い「ひととおり」へと導く展示にはない気安さがある。しかしその気安さは、展示空間だけでなく美術あるいは芸術というものを隔離することを代償としている。作品内で言及される固有名は芸術家のものばかりだ。仮にそれが権威を解体するためのものであっても芸術の非芸術的な動機、芸術の非芸術的な出口の可能性が用意されているわけではない。私は気づくと展示=芸術のなかにいる。私は気づくと展示=芸術の外にいる。しかし展示空間を閉じることと芸術を閉じることは必ずしも一致しないはずだ。どうして大岩は芸術によって手にした自由を、その自由の空疎さを暴くためにしか用いないのか。落下というモチーフの選択への説明責任が免除されたとしても、そのモチーフの使用が生み出すものの展示空間を超えた意味を諦めてよいということにはならない。美術という制度内部の政治性を暴くために美術の対外的な政治的ポテンシャルを無化しなければならないというアポリアが、この展示には組み込まれていないだろうか。しかしすくなくとも批評は、私は気づくと展示の外にいたと言うだけでは済まされないだろう。私はこの展示の落とし所を展示空間の外にずらすことができただろうか。鑑賞者一般として疲労をいたわられるのでも、私の疲労と私の鑑賞を一致させるのでもなく、疲労のあとで再度「私」を展示空間に放り込み、その敷居をまたいだ遅れ——話が前後する——において展示空間を傾け均衡を崩し、その外に落とし所を引きずり出すことができただろうか。
*1ーー「情報科学の一般的なシェーマは、原則として最大の理想的情報を提起し、冗長性は、理論的最大値がノイズにおおわれてしまわないように、ノイズを減少させる限定的条件と見なされる。われわれは逆に、何よりもまず指令語の冗長性があり、情報は指令語の伝達にとって最小条件に過ぎないと考える」(ジル・ドゥルーズ=フェリックス=ガタリ『千のプラトー』宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010年、上巻172頁)。
*2ーーマイケル・フリード「芸術と客体性」(川田都樹子・藤枝晃雄訳、『モダニズムのハードコア——現代美術批評の地平』浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫編、批評空間第2期臨時増刊号、太田出版、1995)を参照。あるいはロザリンド・クラウス「見る衝動/見させるパルス」(榑沼範久訳、『視覚論』ハル・フォスター編、平凡社ライブラリー、2007)では、フリードがモダニズム的な視覚を体現する人物として「時速一四五メートルのボールの縫い目」が見えるというスラッガー、テッド・ウィリアムズを挙げたというエピソードが紹介されている。クラウスはそこでは「視覚は純粋な瞬間のめまいへと、過去も未来もない抽象的状態へと、いわば剥離させられていた」と述べる。
*3ーーボリス・グロイス「インスタレーションの政治学」星野太・石川逹鉱訳、『表象 12』、表象文化論学会、2018年、70頁。
*4ーー同上、72頁。
*5ーーこうした政治的対立へのキュレーターからの応答として、先日公開された長谷川新の論考を挙げることができる(「世界変革のとき──キュレーションについて」『artscape』2019年3月15日号)。
*6ーー ラカンの地口には「欺かれない者はさまよう=父の名(les non-dupes errent = les nom du père)」というものがある。