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REVIEW - 2018.6.4

コラージュとコンストラクションのプロセスとは。
清水穣が見た、スターリング・ルビー「VERT」展と
渡辺豪「ディスロケーション」展

タカ・イシイギャラリー東京で開催されたスターリング・ルビーの個展「VERT」と、URANOで開催された渡辺豪の個展「ディスロケーション」を清水穣がレビュー。コラージュと、その母体となったコンストラクションのふたつの手法に焦点を当てて論じる。

文=清水穣

スターリング・ルビー VERT. BUSH DAI DAI 2018 キャンバスにアクリル、油彩、ボール紙
Photo by Robert Wedemeyer, Courtesy of Sterling Ruby Studio

スターリング・ルビー VERT. BUSH DAI DAI 2018 キャンバスにアクリル、油彩、ボール紙
Photo by Robert Wedemeyer, Courtesy of Sterling Ruby Studio

清水穣 月評第116回
今日のコラージュ、二態
スターリング・ルビー「VERT」展
渡辺豪「ディスロケーション」展

〝モダニズム〞の断片をコラージュする

 スターリング・ルビーが活動の拠点としているロサンゼルスをはじめ、アメリカ西海岸は、ユーラシア周り日本経由のモダニズムと、大西洋周りニューヨーク経由のモダニズム、そしてメキシコのモダニズムが合流する場所であった。例えばスティーグリッツやエヴァンスとエドワード・ウェストン、あるいはニューヨークの抽象表現主義とクリフォード・スティルを比較すれば、後者にはニューヨーク経由の「純粋な」それと比べて、毛色の違う兄弟が入り交じったモダニズムが感じられる。そこは、かつて亡命途上のシェーンベルクやアドルノがそうであったように、ヨーロッパに発したモダニズムが漂流の果てに流れ着き、思いもかけぬ出合いを果たす土地でもあるだろう。スターリング・ルビーの芸術のベースには、こうした漂流と合流のモダニズムへの批評的意識がある。ルビーは、過去100年のあいだに色褪せてボロボロになったかつてのモダニズムの断片、そしてニューヨーク経由の「純粋な」モダニズムの断片を、可塑的な素材としてコラージュするのである。

スターリング・ルビー VERT. BUSH DAI DAI 2018 
キャンバスにアクリル、油彩、ボール紙 Photo by Robert Wedemeyer Courtesy of Sterling Ruby Studio

 「かつてのモダニズム」と言う場合、人はたいていフランスのそれを思い浮かべ、続けてニューヨーク経由の「純粋な」モダニズムが、絵画を「描かれたのではない平面性」(グリーンバーグ)へと還元したことを思い出す。が、ルビーの参照点は、興味深いことにドイツのそれであって、例えばヴァルター・ベンヤミンの「絵画について、あるいは記号と徴」(1918)であり、あるいは本展のモットーとして掲げられたゲオルク・ハイムの詩「人生の影」(1912)である。ルビーがコラージュの全盛期(ただしドイツ)を意識していることは明らかだろう。

 ベンヤミンの小論は、その前年の断章「絵画とグラフィック」と併せて、「描かれたのではない平面性」、すなわちレイヤーが論じられている珍しいものである。ベンヤミンはそこで、「グラフィック」と「絵画」を対立させ、前者は──紙の上の線描、(カインの)刻印、(囚人の)焼印のように──何かの上へ押しつけて形をつくること、後者は──あざや(キリストの)聖痕のように──何かのなかからかたちが出現することであると言う。そして「グラフィックな線は、その基底に同一性を付与する。あるデッサンの基底が持つ同一性は、そのデッサンが載っている白い紙の同一性とはまったく異なるものである」。つまり、線描は支持体面=紙面とは異なる、ひとつの非物質的な基底面=レイヤーを措定しそこに同一性を付与するが、絵画は原理的にそのような基底面を持たない、と。さらに、「絵画とグラフィック」では、絵画の垂直性に対するグラフィックの水平性という試論を立てている。

スターリング・ルビー VERT. PROUN(6606) 2018 
キャンバスにアクリル、油彩、ゴム紐、ボール紙 Photo by Robert Wedemeyer Courtesy of Sterling Ruby Studio

 ベンヤミンを踏まえて(?)ルビーのコラージュは、グラフィックと絵画の両極を同時に遂行(非レイヤー的なものをレイヤー化、またその逆)しようとするものである。前回のシリーズ「BC(ひとつの読みとして「ブリーチ」「コラージュ」)」では、支持体の布を脱色することで布自体からイメージを出現させ、ベンヤミンの言う非レイヤー的絵画に応答するとともに、その上に布や段ボールやテープによるコラージュを施すことでレイヤーを措定していた。本展ではブリーチの代わりに、意外なほど因習的な抽象画が描かれているが、基本は同じである。ただし出品作のタイトル「VERT(ical=垂直)」「WI(n)D(o)W=窓」「CR(o)SS=十字架」が垂直性を示唆していることから、今回の両極は、水平性と垂直性へとずらされているようだ。「垂直」については、バーネット・ニューマンの細長く屹立する立体作品「Here」が参照されているかもしれない。それはカラーフィールド(=レイヤー)の重なり合いで構成された絵画を垂直に切り裂く「ジップ」が、2次元の外の次元に属することの文字通りの表現である。それとは反対に、ルビー作品ではその細長いジップ(しかも汚れた段ボール)が、画面中央に垂直方向にコラージュされてレイヤーを発生させるのである。段ボールと画面はしばしば補色関係に置かれているので、レイヤーはなお一層はっきりと浮かび上がる。

 汚れや染みは、それ自体は非レイヤー的でありながら、何かに付着することによってそこにレイヤーを生じさせる両義的な存在として、ルビーがモダニズムを料理するときに欠かせないスパイスのようなものである。しかしそれは、歴史的なモダニズムがすでにそうであるように、経年変化の徴でもある。早世したゲオルク・ハイムの、死の予感と悪夢に満ちた暗鬱な詩は、ルートヴィヒ・キルヒナーの木版画によるアーティストブックでも知られているが、表現主義やコラージュが、とりわけドイツではまさに戦前(第一次大戦)の芸術であったことを思い起こさせる。すると抽象画やコラージュを反復してみせるスターリング・ルビーの芸術もまた、近い将来、戦前の芸術であったと言われるのか。しかし「目覚めた者は、また朝が来たかとうんざりしながらも、灰色の瞼から重たい眠りをこすり取らねばならない」(「人生の影」最終行)。色鮮やかな本展作品は、ルビーがこすり取った重たい眠りであろう。

スターリング・ルビー「VERT」展会場風景 Photo by Kenji Takahashi Courtesy of Taka Ishii Gallery

コンストラクションの再演

 コラージュとその後継者としての実験映像の流れに遠く連なりながらも、むしろその前提をなし崩しにすることを内実とする渡辺豪のデジタル映像作品については去年の本欄で論じたので、ここでは繰り返さない。スターリング・ルビーと同様、渡辺豪の新作の参照点もコラージュであるが、今回は、より正確には、コラージュの母体となった「コンストラクション」のほうである。

渡辺豪 M5A5 2017 ビデオインスタレーション(クアトロチャンネル) © Go Watanabe Courtesy of URANO

 コラージュの発生は、分析的キュビズム→コンストラクション→コラージュ(パピエ・コレ)という過程を辿る。つまりコラージュの始まりは、キュビズムの平板な画面のなかから、いったん3次元のオブジェとして抽出したものを、再び2次元へと再降下させたものであった。分析的キュビズムの画面を、ハンス・ホフマンに倣って「小さな平面」(レイヤー)の集合体と見なせば、その集合体の様態のうちに「文字通りの透明性」と「現象としての透明性」を区別したのがコーリン・ロウであった。このうち前者は、小レイヤー群が特定の具象(ギター、クラリネット奏者)の引力に惹かれてその周りに集まる結果、それ以外のレイヤー群が背景に退き、全体が透明な空間内で2層に分離して見えることを意味している。後者は、小レイヤー群の重なり合いにおいて上下前後の分離が一義的に決定できず、画面全体が揺らぎ続ける状態のことである。コラージュには前者から後者への移行が必要であるために、コンストラクションとは、この前者の小レイヤー群でできた「具象」を、レイヤー立体として3次元空間へと抽出し、もう一度分解して、2次元へ返してやる操作だったのではないかと仮定できる。レイヤーでできた具象→分解されたレイヤーというプロセスである。渡辺の新作「ディスロケーション」は、このプロセスの再演なのだ。しかも具象のほうはじつにリアルな日常の片隅(棚に並んだ食器)なので、それが下方のシンクへと落下しながら、厚みのない無機的な小レイヤー群へと空中分解する様子は、声なき叫びのように衝撃的である。

渡辺豪 where a landscape emerges 2017 発色現像方式印画 © Go Watanabe Courtesy of URANO
渡辺豪「ディスロケーション」展会場風景 © Go Watanabe Courtesy of URANO