タイ初の国際現代美術館「Dib Bangkok」がバンコクに誕生。東南アジアにおける現代美術の新たな拠点に【3/3ページ】

コレクションがつくる時間軸──未来へ手渡される創造の声

 Dib Bangkokの活動の核となるのが、グローバルな現代美術に特化した恒久コレクションである。1960年代から現在に至るまで、絵画、彫刻、写真、大型インスタレーション、ニューメディアなど多様な表現を網羅し、世界200名以上のアーティストによる1000点超の作品で構成されている。そこに共通するのは、人間存在の複雑さに深く踏み込み、認識を揺さぶり、対話を促す力を備えている点だ。

 ファウンディング・チェアマンのチャンは、このコレクションの成り立ちを「きわめて私的な旅」に根ざしたものだと語る。「父にとっても、私にとっても、アートは精神的な旅でした。日常の混沌から一歩距離を置き、自分自身を取り戻すための、ある種のセラピーのような存在だったのです」。

ソンブーン・ホルティエン《The Unheard Voice》(1995)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Monruedee Jansuttipan, 2025

 コレクションは長い時間をかけて形成されてきたが、近年も積極的な拡充が続いている。昨年だけでも50〜60点の作品が新たに加えられ、欠けていた視点や時代の断片が補完された。チャン自身、現代美術への理解は一朝一夕に得られたものではないと率直に認める。「スポーツや筋肉と同じで、ある程度“鍛え”なければ、本当の面白さは見えてこない。私自身でさえ時間がかかりました。だから一般の方が、現代美術を難しく感じるのは当然だと思います」。

 その実感こそが、「より多くの人とアートの喜びを共有するにはどうすればよいのか」という問いを彼にもたらした。チャンはこの関係性を「アートは海のようなものだ」という比喩で説明する。泳ぎ慣れた者もいれば、まだ水に入ることに不安を覚える者もいる。重要なのは、それぞれが自分に合った深さ、自分なりの関わり方を見つけることだという。Dib Bangkokが目指すのは、一般の観客が無理なく引き込まれつつ、同時に専門家にとっても新たな発見がある、その両立点──いわば「適切な水深」を提示することである。

アピチャッポン・ウィーラセタクン《Morakot (Emerald)》(2007)の展示風景 Courtesy of Dib Bangkok. Photographer Auntika Ounjittichai, 2025

 こうしたコレクションの運用と並行して、手塚は美術館のプログラム全体を貫くキュラトリアルの時間軸を構想している。「私が考えているキュラトリアル戦略は、長編小説を書くことに近い感覚です。開館記念展は、その冒頭章、あるいはプロローグにあたります。次の章では、前章の要素を引き継ぎながら、異なる方向へと展開していく。物語はそうやって連なっていくのです」。

 また手塚は、「Dibのコレクションは、人間性(ヒューマニズム)と精神性への信頼を基盤とし、時代や地域、文化の違いを越えてアーティスト同士が対話できる『開かれた場』として構想されている」と語る。展覧会プログラムによっては、アーティストが実際にこの場所に集い、作品を介して直接対話する機会も設けられる予定だという。

 「私たちの役割は、たんに作品を集めることではありません」とチャンは付け加える。「いま活動しているアーティストを支援し、作品を保存し、同時代の創造的な力が生み出す物語を伝えていくことです。これは、父のビジョンの上に、私たちの世代が新たに加えた使命です」。

Dib Bangkok Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

 バンコクには、2024〜25年にかけて開館したバンコク・クンストハレとカオヤイ・アート・フォレストをはじめ、バンコク芸術文化センター、ジム・トンプソン・アート・センター、SAC Gallery、Nova Contemporary、さらにはリクリット・ティーラワニットが共同設立したGallery VERなど、多様なアートスペース・ギャラリーが存在している。民間セクターの関与が加速するなかで、Dib Bangkokが担うべき役割について、手塚は「人々が集い、継続的な関係を築くための『ハブ』となり、一貫性と持続性を備えた場を提供することにある」と指摘する。

 「偉大な都市には、必ず偉大な美術館がある」とチャンは語る。タイの現代美術館としての使命について、彼は次のように位置づける。「もし現代美術館が存在しなければ、50年後、誰が記憶されるでしょうか。私たちの時代の創造的な声は、意識的に保存されなければ、簡単に失われてしまいます」。

 過去を記録し、現在の声を支え、未来へと手渡す。その長い時間軸のなかで、Dib Bangkokは、バンコク、そして東南アジアにおける現代美術の新たな基点として、確かな歩みを始めている。

Dib Bangkok Courtesy of Dib Bangkok. Photo by W Workspace

編集部