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いま改めて問う、美術は戦争をどう描いてきたか──「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」(東京国立近代美術館)
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自在に想像できるという絵画の強み

 展示の終わりに掲げられた年表を眺めながら、先の「戦争の時代」に絵画が果たした役割を整理し直せば、次のようになるだろうか。

 1931年に満州事変が起こると、国民からは軍を後押しする声が多く挙がった。新聞の号外、画報の写真、ニュース映画、ラジオ、レコードなど新進のメディアが、その熱狂を生み出した。絵画はオールドメディアとして少々脇へ追いやられるかたちとなった。

 1938年に日中戦争が勃発。志願して従軍する画家が続出するも、実際に前線を体験すると、絵画では近代戦を十全に表現しづらいことを痛感する。戦争を視覚的に伝達するには、写真や映画に敵わない。そう画家自身が述懐する例も多数見られた。

 中国戦線は早々に膠着した。大きな作戦展開がなくなると、ニュース映画の流行に翳りが見えてくる。代わりに存在感を増したのは戦争画だった。1939年、国民意識の醸成を目的にした聖戦美術展が開かれ、大きな動員を記録する。

 1941年12月より、太平洋戦争が始まる。緒戦の戦果は、1942年12月開催の第1回大東亜戦争美術展で、作戦記録画により披露された。メディアとしての戦争画の強みは、過去を振り返りながらそれを物語化し、国民の歴史を構築していけるモニュメント性にあると考えられる。

 戦況が悪化すると、写真や映画による記録は難しくなっていく。どんな場面も想像で描けてしまう絵画の重要度はさらに増すこととなった。藤田嗣治は画家が担う役割を深く自覚し、「玉砕図」という新たな主題とスタイルを切り拓いた。

 敗戦後、戦争画はGHQに接収され、平和条約調印前に戦利品としてアメリカに輸送された。作家自身によって焼却されたものも数多いと見られる。

 1950年代に入ると、戦時下のイメージ統制で禁じられていた、傷つき断片化された身体表現が見られるようになる。続く60年代には戦争画の返還交渉が始まり、1970年に日本へ戻り、東京国立近代美術館に収まることとなった。

 戦争画の公開にあたっては議論が噴出した。芸術性をめぐる評価、画家とその遺族への配慮、交戦国や戦地地域の人々への配慮などが論点となった。同館は大規模展示でなく、所蔵品展において歴史の流れのなかで徐々に公開していくという方針を選択した。

 こうした変遷を経た作品群が、本展にはまとまったかたちで出品されている。「昭和100年」「戦後80年」という節目であることが、大規模な展示に踏み切る判断へとつながったのだろう。

編集部