「3章 戦場のスペクタクル」では、劇的に演出されたイメージの数々を見ることができる。陸海軍が依頼する作戦記録画は、前線における兵士の活躍を銃後に伝え、後世に永く残すことを目的とした。続々と制作された記録画は、「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」など全国巡回の展覧会で公開され、多数の観客の目に触れることとなる。
記録性に優る写真や映画と並び絵画が重用された理由のひとつには、戦闘場面をスペクタクル化できる力が買われたという面がある。絵画はつくり手の想像力によって事実を誇張・整理し、劇的な一場面を生み出すことができる。この能力が作戦記録画には必要だったわけだ。
鶴田吾郎《神兵パレンバンに降下す》(1942)は、蘭印スマトラ島パレンバンに陸軍落下傘部隊が降下する模様を描く。様々なパターンで想を練った末に鶴田は、抜けるような青空のなかを一様な形態の落下傘が舞い降りていく構図を選択する。それにより見る者の眼を惹く絵画的な効果は強まったが、当時は「見るからに楽天的」など多少の苦言混じりの評も聞かれた。

撮影=木奥惠三
画家はいつだって時代と向き合い描き続ける
「4章 神話の生成」では「紀元二千六百年」「開戦」「玉砕」「特攻」などの事象が、いかにして神話的な物語として紡がれていったかを示す。美術をはじめ文学、音楽、映画など多様な芸術ジャンルが総動員され連動しながら、時局を反映したイメージを供給し、国民感情に働きかけていった。ラジオから軍歌が流れ、街に標語やポスターがあふれ、展覧会で壁画大の戦争画が展示されることで、人の心を動かす物語を生み出したのだ。

撮影=木奥惠三
中村研一《コタ・バル》(1942)は、対英米開戦を告げる歴史的作戦を描いた作戦記録画である。制作にあたり中村は、作戦のあった半年後に現地の海岸を訪れ、綿密な取材をする。その結果、月明かりによる光と闇の対比、敵側からの視点による迫力ある構図といった効果を盛り込むことに成功。這いつくばりながら鉄条網を切断しようとする兵士や手榴弾を投げようとする兵士を迫真的に描き出した。

「5章 日常生活の中の戦争」では、総力戦としての戦争の様相を、美術作品から炙り出している。兵士のみならず、民間人を含めあらゆる人と資源を動員するのが総力戦。日中戦争から太平洋戦争で日本は初めてこれを経験した。
1943年に洋画家・長谷川春子を中心に結成された女流美術家奉公隊による《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944)は、「春夏の部」「秋冬の部」の2枚から成る。陸軍省の依頼により、銃後を支える女性たちの諸相をモンタージュした絵画を、複数の女流画家が共同制作した。軍需工場や塩田、海人などの労働や、千人針を縫う姿が描き込まれ、銃後を支える活動が紹介されている。

撮影=木奥惠三



















