スピリチュアルな何か、霊性と呼ばれるようなものと結びついた表現は古代から生まれており、人類にとってのカタルシスになっていたはずだ。しかし現在ではそうしたものがタブー視される傾向があり、5館を巡回するこの企画展を通して「宗教以前に芸術があったことを示したい」と語るのは、足利市立美術館の次長で同館の展示を担当する江尻潔。5つに章立てされた展示を順に追いかけていきたい。
最初の章は、「見神者たち」。宗教家や霊能者、あるいは憑依によって作品を手がける表現者たちの作品が集まる。「心を鏡のように研ぎ澄まし、神の姿を映し出すことが『見神体験』であり、この実感がなければ宗教は成立しない」と江尻。「芸術は宗教の母」という言葉を残し、書画や陶芸を手がけた宗教家でもあった出口王仁三郎。「艮の金神(うしとらのこんじん)」の示す光を筆で追いかけ、半紙にして20万枚を超える「お筆先」を残した出口なお。漢数字と記号からなる自動書記によって神示を著した神道家であり、画家として絵画も残した岡本天明。
色彩豊かな描写で神々の復権を提唱した金井南龍は、日本の風景をモチーフに聖地を表現した。宮川隆はカンカカリャ(神懸かり)となって全国を放浪してカミと対峙し、シナベニヤに施した下塗りからスサノオの姿が自ずと現れたのが、三輪洸旗の作品だ。つまり「見神者たち」に集まるのは、内面に神が宿った「ミコトモチ」たちによる作品だ。
続く章は「内的光を求めて」。夢の中の光、あるいは目を閉じて頭の中で想像する光とはどのように生まれているのだろうか。それは内から発する光であり、つまり、人間は光を生み出せる存在なのだと考えられる。そのように人の内部に生み出された光を可視化し、画面に留めた絵画を集めたのがこの章だ。横尾龍彦、藤白尊、上田葉介、黒須信雄、橋本倫、石塚雅子の作品が並ぶ。
展示の章立ては緩くシームレスに続く。「神・仏・魔を描く」と題された章には、神仏の姿を感得し、形にした作家、仏師たちの作品が並び、そこには内面に反映された神や仏と同時に、得体の知れぬ「魔」の姿も現れている。自然信仰や神仏習合などの影響も受け、旅をしながら仏像を彫り続けた円空、台風で半倒壊した樹齢600年のご神木にスサノオを見出した三宅一樹といった作家による立体作品から、高島野十郎、藤井達吉、秦テルヲ、平野杏子、佐藤渓、若林奮などの平面作品が集められた。
「幻視の画家たち」の章を前に、担当学芸員の江尻はこう話す。「幻は見ようと思って見えるものではなく、幻視・幻覚といったものは必然性があって見るものであり、そうした人知を超えた何かを感じ取れるものたちが描いた作品を集めました」。村山槐多や萬鐡五郎といった20世紀初頭の作家から、奄美の謎の生き物ケンムンを描く藤山ハン、本サイトで海外研修先から「トビリシより愛を込めて」を連載した庄司朝美まで、14名の作家が出品。
そして最後の章が、「越境者たち」。江尻曰く「四次元から誤って三次元世界に生まれ落ちてしまい、現世を生きるためにチューニングが必要な人たち」の作品が一堂に会する。岡本太郎、草間彌生、横尾忠則、宮沢賢治、馬場まり子、赤木仁、舟越直木、O JUN、中園孔二が名を連ねる。
人には感得できず、分析することができなければ把握すら不可能な人知を超越した「何か」がある。それを感得した何ものかが、壁に描き、土をこねて造形したものが、周囲の人々の共感を生んだ。おそらく宗教はそのあとに生まれたのだろう。宗教以前に芸術が存在したことを実感できる見応え十分のこの企画展は、お盆の頃まで足利で続き、久留米市美術館(福岡県)、町立久万美術館(愛媛県)、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県)へと巡回する。