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村山槐多

Kaita Murayama

 村山槐多は大正時代に活躍した夭折の洋画家、詩人。1896(明治29)年、神奈川県横浜市に生まれる。両親は森鷗外の紹介を通じて結婚しており、槐多は鷗外の命名とも伝わる。1900年、教員であった父の赴任に伴い家族で京都市内に移住。絵を描くことが好きな少年で、学校での成績は優秀ながら悪童であったという。京都府立第一中学校在学時代から、学友たちと回覧雑誌を発行するなど、文学・美術双方での活発な創作活動が見られるいっぽう、種々の奇行も伝わる。

 若き槐多の活動には、従兄弟で版画家・洋画家の山本鼎の影響が大きかった。14(大正3)年、槐多は父の反対を押し切り、画家を志して上京。鼎の斡旋で初め小杉未醒の邸内に下宿し、高村光太郎の工房に出入りする。同年、二科展に作品4点を出品。うち1点が横山大観に買い取られ、《庭園の少女》が雑誌『みづゑ』に掲載される。日本美術院の研究会員となり、以後、再興日本美術院の洋画部が主な絵画作品発表の場となるが、柳瀬正夢らとともに表現主義的な作品を発表し注目された。

 18年4月、突如喀血し、結核性肺炎の診断を受ける。19年、流行していたインフルエンザ・スペイン風邪にかかり、2月18日の夜、悪天の戸外に発作的に飛び出し、倒れているのを発見される。自宅に戻るも危篤に陥り、20日の朝を迎えることなく22年の生涯を閉じた。没後、友人たちの手により、槐多の詩や戯曲をまとめた『槐多の歌へる』刊行。「強くて悲しい火だるま槐多」という高村光太郎の詩は、大正のロマンとデカダンスに共鳴したその生涯と代表作《尿する裸僧》(1915)のイメージをさらに普及させたと言える。