東京・上野の東京国立博物館で、古代メキシコの文明が残した品々を一堂に展示する特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」が開幕した。会期は9月3日まで。
展覧会は「古代メキシコへのいざない」「テオティワカン 神々の都」「マヤ 都市国家の興亡」「アステカ テノチティトランの大神殿」の4章構成となっている。
第1章「古代メキシコへのいざない」は、古代メキシコの文明の概要や習慣がわかる品々を展示する。いまから1万3000年以上前にシベリアからアメリカ大陸へ渡った人類は、南下してメキシコ中央高原や海岸部、ユカタン半島、中米にたどり着き、狩猟採集生活から次第に定住生活へと移行した。そして前1500年ごろ、メキシコや中米に「メソ(核)アメリカ文明」と呼ばれる古代文化圏が形成された。
前1500年頃に興ったオルメカ文明は、メソアメリカ文明のルーツとも言われている。巨石人頭像をはじめ、石を活用して彫像をつくるオルメカの文化はその後の文明にも引き継がれていった。会場に展示されている《オルメカ様式の石偶》(前1000〜前400)は、人とジャガーの特徴を併せ持つとされる幼児の像で、オルメカの美術様式に特徴的な宗教的概念を表すものだという。
ほかにもマヤの土器や、トウモロコシを加工するテオティワカンの石棒や石皿、天体や暦を表す石板、球技の道具など、メソアメリカ文明の特徴的な品々が導入として紹介されている。
第2章「テオティワカン 神々の都」では、メキシコ中央高原の一角にある、海抜2300メートルほどのテオティワカン盆地の中央に築かれた古代計画都市・テオティワカンが取り上げられている。テオティワカンは紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した都市で、ピラミッドや宮殿、神殿のほか2000ほどの住居用アパートメントが立ち並び、10万人ほどが住んでいたという。
第2章で存在感を放つのが、「太陽のピラミッド」の内部や周囲から発掘された品々だ。とくに展示室の中央に鎮座する《死のディスク石彫》(300〜550)は、頭蓋骨を表現した造形が印象的だ。本品は太陽のピラミッドの正面広場から出土したもので、地平線に沈んだ(死んだ)夜の太陽を表していると解釈されている。
ほかにも太陽のピラミッドの中心付近で見つかった黄鉄鋼の目を持つ《マスク》(150〜250)や、頂上部から出土した頭部に火鉢を載せた《火の老神石彫》(450〜550)など、その由来や意味に興味が掻き立てられる展示品が並ぶ。
また、テオティワカンの南北中心軸上にある「月のピラミッド」の中心部から出土した奉納品の像や耳飾りも個性的だ。加えて、大儀式場「城塞」の中心神殿「羽毛の蛇ピラミッド」から出土した、羽毛の蛇神やシパクトリ神の頭飾りの、迫力ある大石彫にも注目したい。
テオティワカンは交易や市場の経済活動が盛んな多民族が交雑する都市であり、さらに高い軍事力も有していた。会場にはこうした都市の性格を示す展示物も多い。メキシコ湾との交易を行っていた貝商人の墓地とされる場所から見つかった《鳥形土器》(250〜550)や、様々な姿をした戦士の像や器などが、テオティワカンの威容をいまに伝えている。
第3章「マヤ 都市国家の興亡」は、多くの王朝や都市が並立したマヤ地域の出土品とともに、その地に生きた人々や文化を紹介。マヤの文明は熱帯低地で栄えたために食物の長期保存ができず、経済の統制や常備軍を支配制度の基盤とすることが難しかった。そのため、建築活動や祭祀が共同体維持のためには不可欠だったという。
こうした活動の一端を担ったのがマヤ文字と言われている。石碑から宝飾品まで多様な媒体に使われたマヤ文字だが、20世紀より解読がすすみ、研究者による解釈にもとづく読みはあるものの80パーセントが読めるようになったとされている。会場に展示されている石板では、美しい造形のマヤ文字をじっくりと見ることが可能だ。
人工の集中する大都市をつくったテオティワカンと異なり、マヤは熱帯低地の環境に合わせて都市、住居、農耕地が入り組んでおり、人々は様々な仕事に同時に従事したという。出土した土偶には多彩な人々が表されており、織物をする上流階級と思われる女性のほか、戦士、奴隷、道化、捕虜あるいはシャーマンといったその種類の豊かさからは、マヤの多様な営みが感じられる。
マヤでは各地で王朝が林立した結果、交易が行われると同時に戦争が起こることもあった。外交儀礼やとらえた捕虜を描いた土器はこうしたマヤの動向をいまに伝える。
この章で注目したいのは「赤の女王」の埋葬の様子を再現した展示だ。古典期のマヤの中規模都市・パレンケの王であるキニチ・ハナーブ・パカルは活発な建築活動を行った。「赤の女王」はこのパカルの妃であるイシュ・ツァクブ・アハウの可能性が高いという。そのマスクは孔雀石の小片でつくられ、瞳には黒曜石、白目にはヒスイ輝石岩がほどこされている。ヒスイ輝石岩の冠や玉髄の首飾りといった、死後の世界のために収められたと思われる装飾品などとともに、生前の地位の高さが忍ばれる。
第4章「アステカ テノチティトランの大神殿」は、13世紀にメキシコ中央部にやって来たメシーカ人が台頭した末に、近隣の国家と同盟を結んでつくり上げた強大なアステカ王国の首都、テノチティトランを扱う。
国力が強大だったアステカは、建築、絵画、彫刻などが驚異的に発展した。その一端を本展でも垣間見ることができるが、謎も多く残されている。例えば 《鷲の戦士像》(1469〜86)は、多くの専門家がアステカの勇敢な軍人・鷲の戦士の姿を表しているとしているが、守護神ウィツィロポチトリの姿を表しているという説もある。
そのほかにも,多様な姿をした動物神たちの像や、金でつくられたペンダントや耳飾りなど、様々な発掘品が会場には並ぶ。いまもテノチティトランの支配者らの墓は探索されている途中であり、近い将来にはまた新たな発見を目にすることができるだろう。
スペイン人が訪れる前、独特の文明を築き上げていた古代メキシコ文明。いまも同地の人々に受け継がれる、豊かな造形を持つ文化を間近で見ることができる展覧会だ。