20世紀にアメリカとパリで活躍した芸術家、マン・レイ(1890〜1976)。その制作活動のなかでも「我が愛しのオブジェ」と呼ばれたオブジェ作品に注目し、マン・レイの芸術家人生を振り返る展覧会「マン・レイのオブジェ 日々是好物|いとしきものたち」が2023年1月15日まで、DIC川村記念美術館で開催されている。企画は杉浦花奈子(DIC川村記念美術館学芸員)。
マン・レイ(本名:エマニュエル・ラドニツキー)は、アメリカ・フィラデルフィア生まれのユダヤ系アメリカ人。1921年には憧れのパリへ移住し、写真や絵画、オブジェなどの手法でシュルレアリスム運動に身を投じた。第2次世界大戦が勃発するとアメリカに一時避難するも、51年にはパリに帰還。晩年はオブジェと絵画制作に注力した。
本展は、マン・レイ作品のなかでもオブジェ作品に特化した国内初の展覧会。全3章に3つのトピックスを加え、代表作である《破壊されざるオブジェ》《贈り物》《ニューヨーク 17》などを含む、国内所蔵のオブジェ約50点を軸として、関連する作品や資料をあわせた約150点が紹介される。
1章「アメリカのマン・レイ 1890-1921」では、高校卒業後に本格的に画家を志したマン・レイがヨーロッパの前衛芸術に触れ、影響を受けていく様子が紹介されている。1913年、ニューヨーク近郊のリッジフィールドの芸術家村に引っ越したマン・レイは、生涯の友となる芸術家、マルセル・デュシャンと出会うこととなる。
初期にはキュビスム的な絵画を作成しながらも、絵筆を使用せずに描くアエログラフを発明するなど、絵画の領域を拡張するような実験的で自由な制作活動を展開したマン・レイ。既製品を組み合わせながらオブジェの制作も手がけており、これらの反芸術的な実践は「ニューヨーク・ダダ」とも言われている。
1915年の個展の際には、自身の作品を記録するためにカメラを用いて写真を撮り始めた。その後、デュシャンとの写真による共作も現れる。
当時、地図をデザインする仕事に就きながらもパリへの渡航を夢見ていたマン・レイは、30歳でその夢を叶えることとなる。2章「パリのマン・レイ 1921-1940」は、渡航後、デュシャンの仲立ちでダダイストやシュルレアリストの仲間に加わったマン・レイの活躍にフォーカスしたものだ。
マン・レイといえば独自のアイデアと構成が光る写真作品を想像する人も多いだろう。実際、パリでの活躍と生活の糧となったのは、その卓越した写真技術だった。しかし、「芸術家」のマン・レイは写真家として扱われることを避けるために仕事を慎重に選んだという。『写真は芸術ではない』という写真集も出版し、皮肉的な態度を取ることもあった。
また、この時代の写真やオブジェ作品にはキキ、リー・ミラー、アディといった恋人がたびたび登場するなど、作品にマン・レイの恋愛や友人関係が色濃く反映されていることがうかがえる。
1930年当時、シュルレアリストのなかでもオブジェは重要なテーマであった。マン・レイはシュルレアリスムの代表作としてリー・ミラーの目をメトロノームに貼り付けた《破壊されるべきオブジェ》(1923)を発表した(当該作品は1957年の展示中、その名の通り破壊されてしまう。その後マン・レイによって再制作された際はタイトルが《破壊されざるオブジェ》とあらためられた)。
また、マン・レイは「動く写真」として映像制作にも取り組んだ。本展では、1920年代に制作された実験的な無声映画4本のうち《理性への回帰》(1923)、《エマク・バキア》(1926)、《ひとで》(1928)が上映されている。
3章へと進む前に、ここで「マン・レイの自画像」「『我が愛しのオブジェ』とエフェメラ」「ポスター」という、マン・レイのオブジェをより理解するための3つのトピックスが用意されている。
写真を撮り始めた頃から自身の姿も繰り返し撮影の対象としたマン・レイは、写真という形式のみならず、オブジェや自伝としても自画像を制作した。とくに黄色い球体を持つ手のオブジェは、《マン・レイ(Main Ray: 手・光線)》(1935 / 71)とユーモアのある発想で自身を表現している。
また、マン・レイが50代の頃より繰り返し使用した「我が愛しのオブジェ」という言葉が使用されたエフェメラ(チラシなどの資料類)や、世界各地で開催された展覧会のポスターを展示することで、マン・レイのオブジェの発表の軌跡が多角的に示されている。
1940年、50歳になったマン・レイは、第2次世界大戦の戦禍を逃れアメリカに戻り、最後の結婚相手・ジュリエットとハリウッドで過ごしながら生活を立て直した。この頃から、パリに残してきた作品を手元に取り戻すように、絵画の描き直しやオブジェの再制作に取り組むこととなる。
51年に再びパリへ戻ってからのオブジェには、ユニークな言葉遊びが軽やかに造形表現されている作品が目立つ。《フランスのバレエ》(1956 / 71)では、フランス語の「ほうき(balai)」と「バレエ(ballet)」がかけられているなど、ギャグのような作品が多く見られるが、そこには造形としての面白みも同時に存在しており、なんとも不思議な味わいがある。これらのオブジェはマン・レイ自身も楽しみながら制作したのだろうというのは想像に容易い。
晩年には、回顧展の開催や自伝の執筆、オブジェの再制作(レプリカ)などに自身の芸術家人生を振り返りながらも新作の制作にも注力し、その86年の人生を終えた。マン・レイの墓石には口癖である「無頓着、しかし無関心ではなく」という言葉が刻まれた。
本展では、マン・レイのオブジェを通じてその芸術家人生と取り巻く環境を振り返ることができる。アメリカで活動していた20代から晩年まで、泉のごとく常に湧き出るアイデアを、様々な手法を試しながら新たな表現をかたちにしていったマン・レイ。その姿は鑑賞者を驚かしつつも、惹きつけるものがある。
本展を企画したDIC川村記念美術館学芸員・杉浦花奈子は、「マン・レイという国内で何度も紹介されてきた作家の展覧会を改めて企画するにあたり、新しい視点を示すため、オブジェをテーマに据えた」とその背景を語る。「様々な作品を手がけ、広い交友のあったマン・レイを端的に語るのは非常に難しいが、オブジェを軸にすると彼のユーモア性やコンセプチュアルな面がよく見えてきたように思う。また、『我が愛しのオブジェ』と呼んだ作品たちは、絵画や写真と比べてマン・レイにとって気負いのない自由かつ純粋な制作物だったととらえている」。
また 本展の見どころについては、次のように語っている。「同じモティーフのオブジェ同士、写真とオブジェ、絵画とオブジェなどを比較できるところだ。複数並べて展示している作品を見比べるのも楽しいし、作家が自身の作品を繰り返し再制作をする理由や、芸術作品のオリジナリティについて一考する機会となれば」。
なお、同時開催中のコレクション展ではジョゼフ・コーネルやマルセル・デュシャンなど、マン・レイと同時期に活躍したアーティストの作品も鑑賞することができる。ふたつの展示を見比べて、一歩深い鑑賞体験をあじわうのもよいだろう。