マルセル・デュシャンの幻影
本書は、日本の美術界における、1920年代から80年代までのマルセル・デュシャンの「影響」を論じたものである。著者・平芳幸浩は、デュシャン自身がプレイヤーとして戦略的に振る舞った戦後アメリカとは異なり、日本におけるデュシャン受容とは、日本にほとんど関心を示さなかったデュシャンへの片思い的なものであり、ダダからコンセプチュアル・アートへと至る欧米の前衛美術の移入とともに、あるいはそれらの枠組みを超え出る「孤高の存在」として、独特なデュシャン像を創出する変遷であったと見定める。
なかでも興味深いのは、そうした流れにおいて繰り返し表出する「日本的なるもの」、すなわち日本の伝統的な美意識と「デュシャン的なるもの」の接続である。西洋美術で培われた造形的操作が介入しないレディメイドのオブジェを、「見立て」や「わび・さび」のような日本古来の表現方法へと結びつけていく過程から、本来日本的ではないはずのデュシャンに、なぜか親近感を覚えてしまう思考回路の起源を知ることができるだろう。
本書が優れているのは、いわゆる受容史としてたんに時代を追うのではなく、デュシャンの「不在」こそを主眼としている点にある。それは、デュシャンのメモの終わりなき読解ではなく、それが実務的に必要とされた背景にある《大ガラス》東京バージョン(1980)の制作へと収束させ、その受容史の幕を下ろすという本書の構成に表れている。レディメイドに代表されるオリジナルの不在や、沈黙と不制作の伝説よりも、1981年になりようやく実作が出品された大規模回顧展や、マルチプル、あるいはレプリカの実見によって、その「影」との「響きあい」が消失した現在を逆説的に晒してもいるのだ。
著者は、かつてデュシャン読解をRPGの「ダンジョン」のようだと形容したが、東野芳明に限らず、世界中で展開されてきたデュシャンの「謎=エニグマ」へと引き寄せられていく「逡巡」でさえも冷静に分析し、相対化する。しかし、デュシャン論が展開される言説空間の特異点を星座のように結んだという本書が、整理されたナラティブとして「受容」されてしまうことは避けられなければならない。本書は、かつてのエニグマのみならず、いまや教科書的な記述のなかに収まる日本現代美術における暗黙のデュシャン像、その双方の幻影を揺さぶる広大なプラットホームとしてこそ現れているのだから。
(『美術手帖』2021年8月号「BOOK」より)