古今東西、数多の芸術家たちが挑んできた「ヌード」。芸術の世界において、永遠のテーマでもあり、ときには批判や論争の対象となってきたヌードと、全面的に向き合う展覧会が横浜美術館で開幕した。
「ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより」と題された本展は、イギリス・テートの所蔵作品を中心に、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画から現代の身体表現まで、西洋近現代美術の200年にわたる裸体表現の歴史を紐とくもの。
フレデリック・ロード・レイトンが神話を題材として描いた理想化された裸体から、ボナールらの室内の親密なヌード、シュルレアリスムの裸体表現、人間の真実に肉迫するフランシス・ベーコン、さらにはバークレー・L・ヘンドリックスやシンディ・シャーマンまで、絵画、彫刻、版画、写真などを8つの章、約100点でたどる。
展覧会は、性の倫理に厳しかった19世紀ビクトリア朝の社会風土の中で生み出された作品を紹介する「物語とヌード」でスタートする。同章ではジョン・エヴァレット・ミレイの《ナイト・エラント(遍歴の騎士)》(1870)をはじめ、フレデリック・レイトンの《プシュケの水浴》(1890)、ハモ・ソーニクロフトのブロンズ像《テウクロス》(1881)など、歴史画や物語を主題にしたヌードが並ぶ。とくに、複数のモデルを用いて、理想的な身体をつくりあげた《プシュケの水浴》には目を見張るものがある。
続く第2章では、アンリ・マティスやピエール・ボナール、エドガー・ドガ、オーギュスト・ルノワールなど、大家たちが描いた同時代の(身近な)女性たちを主題にした絵画が並び、19世紀からのヌード表現の変遷を感じられる。第3章「モダン・ヌード」でパブロ・ピカソやヘンリー・ムーアなど身体を新たな視点でとらえた作家達の作品を抜けると、本展のハイライト、オーギュスト・ロダン《接吻》が出迎えてくれる。
《接吻》は、高さ180センチ余りの大理石彫刻。世界にたった3点しか存在しない傑作であり、今回が日本初来日となる。2人の男女が抱擁し、唇を重ねた瞬間を表した本作は「男女の愛を永遠にとどめた」とも評される作品。その巨大さに圧倒されるとともに、ロダンならではの肉感が、思わず大理石であることを忘れさせる。
なお、ロダン作品の周囲には「エロティック・ヌード」としてデイヴィッド・ホックニーが男性の同性愛を描いた《古代の魔術師の処方に倣って「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より》や、パブロ・ピカソによるエッチングの作品群などが配置されているので、こちらもあわせてチェックしたい。
続く「レアリスムとシュルレアリスム」では、1920年代から40年代にかけて生み出された、ヌード表現を牽引したレアリスム(現実主義)とシュルレアリスム(超現実主義)の作品を紹介。ポール・デルヴォーの大作《眠るヴィーナス》(1944)をはじめ、バルテュスの《長椅子の上の裸婦》(1950)、マン・レイの《うお座(女性と彼女の魚)》(1936)などが並ぶ。
このほか、躍動する肉体を描いた作品が集まる「肉体をとらえる筆触」では、国内2ヶ所(東京国立近代美術館、富山県美術館)からフランシス・ベーコンの大作2点《スフィンクスーミュリエル・ベルチャーの肖像》(1979)、《横たわる人物》(1977)が特別出品。テートから出品されている5点のスケッチとともに、ベーコンの特有の身体表現を堪能できる。加えて、ルシアン・フロイド《布切れの側に佇む》(1988-89)や、ルイーズ・ブルジョワが赤のグワッシュで描いた作品群など、注目すべき作品は多い。
また、本展では男性のヌードが出品されていることにも注目したい。「身体の政治性」では、従来の見る者(男性)と見られる者(女性)の関係を逆転させてたシルヴィア・スレイの《横たわるポール・ロサノ》 や、黒人男性のヌードを描いたものが少ないことに疑問を呈するバークレー・L・ヘンドリックスの《ファミリー・ジュールス:NNN[ノー・ネイキッド・ニガー(裸の黒人は存在しない)》など、自らの政治的主張を織り込んだ作品と向き合う機会となっている。
本展は、最終章「儚き身体」で幕を閉じる。雑誌の見開きページのヌード写真のためにポーズをとった後、ローブで身を包むモデルとして自身を登場させたシンディ・シャーマン、自らの老いゆく身体を被写体としたジョン・コプランズ、何かが起こりそうな予感に満ちた、自身の裸の後ろ姿を写したトレイシー・エミン。人間の身体の儚さや、死を連想させるヌード作品と対峙する。
メトロポリタン美術館でのバルテュス撤去運動をはじめ、ヌードに対する視線が厳しくなっている昨今。テートの優れたコレクションを通して、改めて美術におけるヌードとは何か、その今日的な意義とは何かについて考えたい。