もの派、そして「触」シリーズへ。学芸員が語る「吉田克朗展—ものに、風景に、世界に触れる」(神奈川県立近代美術館 葉山)

キャリア初期には「もの派」のひとりとして活動し、ほどなくして絵画表現を模索する道を歩んだ吉田克朗。「触」シリーズを精力的に手がけるなか、1999年に55歳で逝去した作家の全貌にせまる大規模な回顧展「吉田克朗展—ものに、風景に、世界に触れる」が初めて開催される。展覧会を担当する神奈川県立近代美術館の学芸員・西澤晴美に話を聞いた。

聞き手・文=中島良平 構成協力=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部)

吉田克朗 1989 撮影=馬場直樹 ©The Estate of Katsuro Yoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates

吉田克朗の創作活動の全貌を明らかに

──これまでに、「もの派」時代の作品が紹介されたり、「触」シリーズにフォーカスしたりと、特定の時期に絞った展示は行われてきた吉田克朗(1943〜99)。初の試みとして、キャリアの全貌を回顧する展示が没後25年目にしてようやく開催されますが、どのような経緯で開催が決まったのでしょうか?

西澤晴美(以下、西澤) 吉田克朗さんは55歳で亡くなりましたが、奥さまをはじめとするご遺族が、ご自宅の作品や制作ノート、写真なども含む膨大な資料をとても丁寧に整理されていて、いずれ美術館で展覧会ができないかというご意向をお持ちでした。また、同じもの派の作家である李禹煥さん、小清水漸さんなど美術関係のご友人もとても多い方であり、色々な方が吉田さんの展覧会をできないかと、美術館関係者に折々働きかけられてきました。

 そこで、「物質と知覚」展(1995)を開催するなどもの派の作家紹介を続けてきた埼玉県立近代美術館が──吉田さんは埼玉県深谷市出身でもあります──ぜひやりましょうと最初に手を挙げられた。当館では、吉田さんがご存命の頃に一緒に展覧会を行ったことがあり(*1)、吉田さんが長く鎌倉を拠点にされていたご縁もあるので、2館で手を組んで回顧展を行うことが決まりました。埼玉県立近代美術館の副館長である平野到さんが企画の中心となり、ご遺族と吉田克朗の研究に取り組んで来られた奈良県立美術館の山本雅美さんも全面協力してくださいました。非常に重要な作家ですので、きちんと創作活動の全貌を明らかにして、作家としての位置付けを確立させたいという思いを共有し、調査と研究を進めてきました。

──「創作活動の全貌を明らか」にする今回の回顧展では、どのような展示構成になるのでしょうか。

西澤 会場は、「ものと風景と 1969-1973」「絵画への模索—うつすことから 1974-1981」「海へ/かげろう─イメージの形成をめぐって 1982–1986 」「触─世界に触れる 1986–1998」「春に—エピローグ」という5章立ての展示構成になります。第1章では、もの派時代の作品2点の再制作も行い、展示をします。当初は、その作品の展示記録をスライドショーで見せようと考えていたのですが、やはり吉田克朗を知らない世代にとっては、素材感やスケールを直に感じ取ってもらえるほうが鑑賞体験として良いだろうという考え方に変わり、再制作するに至りました。

 さらに、同時期に制作された立体・平面作品を同じ空間で鑑賞できる構成を意識しました。吉田は立体作品において、ものを組みあわせる感覚に優れていると言われた作家ですが、その感覚がどのように平面に反映されたのか、といった点も見えてくるはずです。

第1章「ものと風景と 1969-1973」会場風景 撮影=山田龍
本展のために再制作された《Cut-off (Hang)》(1969 / 2024) 撮影=山田龍

模索期の作品から、絵画表現の展開にフォーカスする

──1980年代にもの派が再評価されると、吉田克朗も評価の対象としてその名前が上がりました。

西澤 たしかに最初期の活動は、のちにもの派と呼ばれた動向のなかに位置付けられます。もの派の中心メンバーは多摩美術大学の斎藤義重の教室の出身者が多いのですが、吉田も斎藤のもとで学びましたし、もの派が生まれるきっかけとなった──同じく斎藤義重の指導を受けた──関根伸夫の作品《位相—大地》の制作アシスタントも務めていました(*2)。実際にもの派の特徴を示す作品をつくり続けたのですが、72年にはその作風から離れます。しかしながら、1980年代に起こったもの派の再評価によって、「吉田克朗=もの派作家」という一面的なとらえられ方がなされるようになりました。

 吉田の評価は、もの派時代の作品と、90年代に亡くなるまで続けた「触」シリーズ──文字通り黒鉛を手でこすりつけ、画面に触れながら描く絵画作品──というふたつの評価が定まっており、そのあいだの十数年にどのような活動があったかは意外と知られていません。例えば、ものに絵具をつけて紙やキャンバスで写し取る作品を手がけるなど、絵画表現の模索期と呼べるような時代もあったわけです。今回の回顧展に向けて行われた調査を踏まえて、この模索期の作品を重点的に追っていくことで、絵画の展開を丁寧に紹介したいと企画メンバーで話しあいました。

触 制作風景 1989 撮影=馬場直樹
©The Estate of Katsuro Yoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates

──ご遺族が管理されていた膨大な資料からは、どのような吉田克朗像が浮かび上がってきたのでしょうか。

西澤 吉田は、自身の作品についてあまり言葉にしない作家だと思われていました。しかし調査させていただくと、作品についての言葉を膨大に残していたことが判明し驚きました。さらにその内容は、制作プランやスケッチといった記録のようなものと、自身の考えを書き綴ったものなど様々でした。例えば制作の記録であれば、写真を使ったシルクスクリーンの場合はどこで撮った写真を何部刷ったか、転写作品に関する模様の描写や点数はどうであるか、といった具合に、その情報をかなり詳細に残していました。

吉田克朗 Work "9" 1970 紙にシルクスクリーン 神奈川県立近代美術館
©The Estate of Katsuro Yoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates

 もうひとつは自身の心情を書き綴ったものですが、これには制作活動における迷いなども含まれていました。哲学的な内容も多かったです。ほかにも実際にかたちになっていない作品の構想や、80年代にもの派が再評価されるなか、自分が絵画表現に移行したことの意味を肯定的に見出そうとするような記述も見受けられました。

 そして、絵画表現の探究が深まって「触」シリーズを手がける90年代になると、ほとんど心情やコンセプトのことを記さなくなりました。この頃には、制作上の迷いがなくなっていったのかなと想像できます。

──もの派の作家として、ものの存在と触れることを通じて制作を行っていたわけですが、転写を用いた模索期から晩年の「触」シリーズに至るまで、絵画制作を続けながらも、作品を「触れる対象」として考えていたようにも思われます。

西澤 そのようにも言えると思います。「もの」と自分との関係のなかで作品が生まれるというか。この解釈を言語化するのは少々難しいのですが、吉田にとって「もの」に「触れる」こと(逆説的に、触れないこと)が重要であり続けたことはたしかです。

吉田克朗 ロンドン1 (Gunnersbury) 1973 紙にフォト・エッチング 東京都現代美術館(展示期間:4月20日〜5月26日)
©The Estate of Katsuro Yoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates

──転写の表現についても、物体を空間に置くことから始まった取り組みが、塗装した物体を紙の上に置いて、形を写し取ることへと展開したわけですから、絵画への転換も「もの」の表現の延長のようにも感じられます。

西澤 吉田は当初、物体と物体を組みあわせた立体作品(オブジェ)を手がけていましたが、それを絵画作品として平面に転写することで、転写されたものの存在と不在、つまり「もの」とその写影、といった関係性を追求するようになりました。そのうち、吉田自身がその「もの」に触れながら絵を描くようになったため、自分自身がその写されるべき「もの」になっていくかのようにも、私には思えました。

──作品には写真も使用されていますが、作家にとって写真はどのように位置付けられていたのでしょうか。

西澤 もともと写真は好きだったようで、もの派の時代からすでに写真を用いた版画制作も始めていました。エスキースの展覧会への出品を依頼された際には、“ドローイングの生(なま)の感触が気分にあわないから写真を使った版画を出品した”とも語っており、なるべく自分の作業の痕跡、つまり生っぽさを感じさせないようにと作品を手がけていたようです。写真表現を用いることで、筆で描くのとは異なる方法を用いて絵を残そうとした可能性もありますね。

吉田克朗 Work "D 197" 1977 転写、描画:紙にアクリル、パステル The Estate of
Katsuro Yoshida
©The Estate of Katsuro Yoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates
第2章「絵画への模索—うつすことから 1974-1981」会場風景 撮影=山田龍

──ものも写真も、対象物と自分との距離感、もしくは作品と自分との距離感を考えるための媒介だったようにも思われますね。

西澤 おっしゃる通り、対象と自身との距離が念頭にあったはずです。生の感じを避けていたのがどんどん近づいていき、最終的には手で触って描くようになったという道のりがとても興味深いですし、今回の展示でも感じていただけるはずです。

──極端にズームした写真から被写体の一部を切り取ったり、もののシルエットを抽出したり、写真から派生した抽象的な絵画シリーズもあります。1974~75年の「J」シリーズでは、道路標識を撮影したスライドを投影し、その輪郭を鉛筆で紙になぞりつけています。絵画を探究する方法のひとつとして写真を用いていたとも言えるのでしょうか。

吉田克朗 Work 4-45 1979 転写:キャンバスにアクリル The Estate of Katsuro
Yoshida
©The Estate of Katsuro Yoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates

西澤 そうかもしれません。初期の作品には写真の一部を網がけしたり切り取るような表現が見られます。「J」シリーズのあとには、写真を用いずに壁面をそのまま写し取った「Work 3」「Work 4」、そして1980年代の「海へ」シリーズでは、再び風景写真を用いて、その一部を拡大しドローイングに落とし込んでいます。

 それに関連して、「海へ」の前段階として手がけられた「かげろう」というペインティングのシリーズがあるのですが、幾何学的ともバイオモルフィック(生物形態的)とも言えない謎めいたかたちが描かれています。対象物を本来とは異なるかたちで示すことを絵画上で試みており、もの派時代の思考とのつながりも見受けられます。ただ本人に具象/抽象という概念はなかったと思います。カメラのズームイン/ズームアウトのように、距離による見え方の変化をつかみ取ろうとしていたのかもしれません。

吉田克朗 かげろう "婉-12" 1986 キャンバスに油彩、アクリル The Estate of Katsuro
Yoshida
©The Estate of Katsuro Yoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates

もの派、転写、写真、そして「触」シリーズへ

──そして作風の変遷を経て、最後は「触」シリーズへ。展示を通して、どのような吉田克朗像が鑑賞者のなかに浮かび上がってくると想像されますか。

西澤 吉田は「もの」の転写や版画など色々と試しながら、最終的に「触」シリーズに没頭するというキャリアをたどった作家でした。本展でその作風の変遷を追いかけていくと、「触」シリーズへの到達の過程、そして自身の表現に対して、写すことや触ることを通じて、本当に真摯に向きあった作家だということが改めてよくわかるかと思います。その世界観の独自性を感じ取っていただければ嬉しいです。

吉田克朗 触"体-190 A & B" 1992 キャンバスに油彩、アクリル、黒鉛、マットメディウム 神奈川県立近代美術館
©The Estate of KatsuroYoshida / Courtesy of Yumiko Chiba Associates
第5章「春に—エピローグ」会場風景 撮影=山田龍

*1──「今日の作家たちIV- ’92 山本正道・吉田克朗展」を神奈川近代美術館[旧鎌倉館]で1992年に開催。
*2──本展の会期中には、コレクション展「斎藤義重という起点—世界と交差する美術家たち」も同館で同時開催される。

編集部

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