「もの派」とは、1960年代末から70年代半ばにみられた日本の美術家たちの表現の傾向を指す言葉である。石、紙、鉄板といった自然物・人工物を、ほとんど手を加えることなく空間に提示する彼らの手法は、今日でも見る者にインパクトを与える。
本記事では『美術手帖』1970年2月号「発言する新人たち」特集から、座談会「〈もの〉がひらく新しい世界」を公開。今日もの派を代表する面々が、若き「新世代」として顔を揃えた伝説的な座談会だ。「近代」の揺らぐ時代に、新進の作家たちは「ものをつくる」こととどう向き合っていたのか。鋭い対話から、それぞれに異なる制作の背景や、同時代の美術を批判的にとらえるまなざしが見えてくる。
〈もの〉がひらく新しい世界
小清水漸 関根伸夫 菅木志雄 成田克彦 吉田克朗 李禹煥
時代は、たしかに、おおきく揺れ動いている。学生のゲバ棒となって突出したその背景で、数百年の〈近代〉が営々と築きあげてきたあらゆる価値は、いま、根底から問い直されようとしている。そして、この混とんのなかから、新しいなにかを、新しい〈世界〉の秩序を生み出そうとするさまざまな模索の胎動が、確実なリズムをもって聞こえてくる。この美術の分野でも。いや、〈美術〉という旧来のジャンルのなかでは、とうていつつみきれない現象が、わが国でも、ここ数年いちじるしく見うけられるのだ。
たとえば昨年の、東京都美術館での毎日新聞社主催「日本現代美術展」、あるいは京都国立近代美術館における「現代美術の動向展」。そこに、石を、紙を、鉄板を、あるいはそれらの組み合わせを、ほとんど手を加えることなく、いわば、ただそれだけの〈もの〉としてならべ置いた一群の新人たち。そして、見る人たちの明らかなまどい──「これでも美術か」
美術と呼ばれようと呼ばれまいと、かれらは意に介しない。この解体と拡散の時代に、かれらが基盤とするのは、つまるところ、自己の世界観にほかならず、それを伝えるために選んだのが、たまたま〈もの〉であるにすぎないのだ。かれらは日常的な〈もの〉そのものを、非日常的に、直接的に提出することによって、逆に〈もの〉にまつわる概念性をはぎとり、そこに新しい世界の開示を見ようとする。ここでしばらく、かれら日本の新世代の発言に耳をかたむけてみよう。司会は李禹煥氏にお願いした。(編集部)
あなたはなにをする人ぞ
李 今日お集まりになった方々に共通していえることは、みなさんアトリエなんか持っていないんですね。そして、毎日いわゆる作品をつくっている、あるいは絵を描いているというわけでもない。そんなところで、たとえば、「あなたはなにをしている人ですか」と聞かれると、とまどってしまうのではないかと思うんです。従来は、ぼくは彫刻家ですとか、絵描きですとか、また造形作家ですというふうに誇りをもっていえたかもしれないのに、いまは、生活のためにはまったく別なアルバイトをやっているし、しかも、自分のつくったものを売って飯を食うということは、頭のなかにはさらさらないかもしれない。そもそも、そういうものを商品化しようなどと考えることは非常に困るとさえいえる。そういうことを拒否する人すらあると思う。吉田さんなら、どう答えますか?