戦後、私たちは爆撃された都市だけではなく、破壊された人間性や科学文化をも前に立ち上がらなければならなかったのです。
1958年、ドイツのデュッセルドルフでオットー・ピーネとともにグループ「ZERO」を創設したハインツ・マック。時間や空間、色彩、光、反射や運動を中心テーマに、新たな芸術概念を模索したこのムーブメントは、国際的な広がりを見せた。2014年から15年にかけては、ニューヨークのグッゲンハイム美術館、ベルリンのマルティン・グロピウス・バウ美術館、そしてアムステルダムの市立美術館で過去最大規模のZEROの展覧会が行われ、再評価の波が訪れている。ZEROが生まれたデュッセルドルフのゲーテ博物館で、マックの個展が開催中だ。その展覧会のオープン数日後に87歳の誕生日を迎えた作家から、歴史を切り開いたその作家人生について、話を聞く機会を得た。
アートと哲学を学ぶ学生時代
デュッセルドルフの芸術アカデミーで学びながら、当時のアートシーンにも触れようとしていたマックは、数年後、それまで学んできたことがすべて「時代遅れ」だったことに気づき、「いまの時点から、アートに進歩のチャンスはあるのか?」と問うことになったという。「この問いに大いに触発されました。短いあいだでしたが、完全に黒い絵画を描くことを切望しました。この無謀な行動としての表現は、『ここから芸術がどのように発展しうるのだろうか? いったい、これを続けることは可能なのか?』といった問いにつながるものでした。私は徐々に、それまでに学んできたことすべてを忘れる必要があるという結論に達しました。自分自身の方法を生み出す唯一のチャンスは、もっとも単純な芸術的法則を検証することでした。これはもちろん、空虚さにおける絵画の表面や、彫刻の開かれた空間に関係します。初めから私はこの両分野に興味がありました。当時、その発端から始める新しい芸術的アプローチは、アート・シーンを驚かせ、多くの人たちが異議を唱えたり、真剣には受け止めなかったりしました。つまり、激しい反応があり、同じような思考を展開する最初の作家仲間が現れるまでに、しばらく時間がかかりました」。
芸術アカデミーを卒業後、マックはケルンで哲学を学んだが、第2次世界大戦後に高校を卒業した彼は、幸運にも優秀な高校で洗練された教師たちとの出会いがあり、すでに哲学を学び始めていた。
「この時期、少なくとも私たちの世代は、総じて知的な孤立状態にあったのです。言い換えれば、私のような若者たちには、戦時中に投げかけられた問題への答えを見つけることに、強い好奇心とモチベーションがありました。つまり、文化全体が議論の対象となっていたのです。戦前、そしてその前段階では、ドイツは文化の国でした。戦後、私たちは爆撃された都市だけではなく、破壊された人間性や科学文化をも前に立ち上がらなければならなかったのです。私たちの存在の感覚とはいったいなんなのか? 高校では、こうした問いがすでに挙がっていました。宗教がどの程度この問いに答えを与えることができたでしょうか? 私が16〜18歳の頃、若い世代はフランスからの哲学的な問いに直面していました。サルトルの実存主義があり、またポール・エリュアールの存在がありました。両者は共に、哲学の全歴史が問われるべきであり、人間は自らの人生の可能性に責任を負うという点について、明確に述べていました。どういった可能性があるのか? その質問に対する用意された答えはありません。これがひとつの側面でした。
私が哲学を学んだもうひとつの理由は、まじめな職業につくことを、母と約束していたからでもあります。私の父は戦死していたので、家族を支えるためにも、教職に就くことを決めていました。そして卒業後、デュッセルドルフの高校で2年間、芸術と哲学を教えていました」。
光、色、空間に対峙する
今回のゲーテ博物館での個展「光の行為マック&ゲーテ」でも、ゲーテの哲学とマックの実践における2人の関係性が、鮮明に示されている。「高校生だった早い時期に、私とゲーテの関係は始まりました。彼は偉大な芸術家かつ精神のひとりとして、ドイツ文化をきわめて豊かにしてきました。この展覧会では、私とゲーテが共に関心を寄せる光と色に対峙しています。しかしこれは、対等な者同士のディスコースではありません。いっぽうは偶像化された英雄、もういっぽうは、自身の作品によって彼にアプローチしようとする私という存在です」。
1970年にはヴェネチア・ビエンナーレのドイツ館の代表作家となり、ドクメンタには第2回の59年から、64年、68年、77年と、4度にわたり参加。展覧会のみならず、世界各地であらゆるプロジェクトを行い、グループとしてだけではなく、個人の作家としてのキャリアも築いたマック。代表作である《スカイ・オーバー・ナイン・コラムズ》は、ヴェネチア、イスタンブール、バレンシア、サン・モリッツなど、まるで旅するように多くの場所で発表され、世界の都市風景にインパクトを与えてきた。
「この作品は南アメリカのインカの古代建築と関係があり、コラム(柱)が重要な役割を担っていることに気づくには、世界の美術史を深く広範囲に知る必要があります。また、古代ギリシャの建築は主に、ピラー(支柱)とコラムが基礎となっています。つまり、私の9本のコラムには、先立つ歴史があるのです。古代より、ピラーは人間が空間で直立している姿を現していました。空間を支配しながらも同時に、その重点を担っているのです。空間、すなわちこの世界でのポジジョンを持っているということです。ドイツ語でも「ピラー」には2つの意味があります。物理的な位置や場所のほかに、あなたがどこへ属しているかを知るための意見や信念といった意味もあります。開かれた空間におけるこのポジションは、「アンサンブル」のような考え方です。いくつかのコラムが互いに高め合い、空間と積極的に関わろうとするこの構成が、アンサンブルをつくり出しているのです。《スカイ・オーバー・ナイン・コラムズ》には、建築との興味深い関わりがあります。観客や批評家たちは、それを世界の「寺院」だと言い表し、私はそれを否定しませんでした。ヴェネチアでは、このアンサンブルの前にひざまずき、祈りをささげている老女を見て、深く感動しました」。
いっぽうで、60年代からアフリカの砂漠に「人工庭園」を設置するという「サハラ・プロジェクト」を行い、68年には、その様子を撮影した映像作品《テレ・マック》を制作している。「学生の頃から、スケールの大きな、モニュメンタルな彫刻に興味を抱いていました。また、私は非常に人口密度の高い国で育ってきたため、何もかもが供給されるような、文明の指紋が付いていない空間を見つけることを望んでいたのです。私の芸術が順応する手付かずの自然空間です。それと同時に、この「サハラ・プロジェクト」は、美術館の制度に対する反乱でもありました。当時はまだ美術館に彫刻を設置する準備が追いついていなかったのです。モニュメンタルな彫刻の設置に関しては、なおさらです。砂漠という自然の力は、私の芸術的想像力をかき立てました」。
2012年、ロサンゼルスの現代美術館とミュンヘンのハウス・デア・クンストで開催された「EndsoftheEarth:LandArtto1974」展のなかで、マックはランド・アートに携わった初めてのヨーロッパの作家であると紹介されている。
吉原治良との出会いと大阪万博
またこの時期、マックには具体美術協会を結成した吉原治良との出会いがあった。1962年にアムステルダム市立美術館で開催されたZEROの展覧会、「NUL」展でのことだった。息子や具体のメンバーたちと訪れていた会場で、吉原はマックの作品に非常に感銘を受けていたという。70年、マックはドイツ政府から、大阪万博でのドイツ館のデザインを依頼され、パビリオン全体の入り口をデザインし、巨大なホールで光の彫刻を展示する機会を得た。大阪で具体のメンバーたちとの再会を果たしたマックは、彼らの仕事に魅了される。「ダダのムーブメントに匹敵するような、非常にスペクタクルな仕事であると私には思えました。彼らのアイデアはとても独創的で大胆で、これまでに見たこともないものでした。そこにはZEROの精神がありました。ある意味、具体の作家たちは、ZEROの芸術におけるいくつかの観点に先駆けて着手していたのです。これは私自身の作品には当てはまらないことを明言したいのですが、具体の作家たちはすでに、例えば私の仲間たち、ピーネやギュンター・ウッカーの作品に見られるいくつかの観点について考えていることに気づきました」。吉原によって大阪にとどまることを促されたマックは、大学で彫刻を教える教授職を与えられた。吉原への恩義をいまも持ち続けているという。加えて日本が政治的にも文化的にもターニングポイントを迎えたこの万博は、マックにはどのように映ったのだろうか。
「大阪のドイツ館では、芸術が人々に多大な影響を与えられるよう努めましたし、主催者たちも芸術がいかに重要かということを了承していました。しかしながら、この万博でのもっとも近代的な出展者はアメリカ人たちであり、彼らは自国のパビリオンに自信満々でした。いっぽうソビエト連邦のプレゼンテーションにはがっかりさせられました。過去に成し遂げてきたことを見せるにとどまり、未来的な思考がないように感じました。ドイツ人たちのプレゼンテーションは平和的でフレンドリーでしたが、大胆さには欠けていました。日本人は博覧会の中心で、自らをスペクタクルに演じていましたが、私が注目したのは、具体の芸術であり、産業などについての展示ではありませんでした」。
アーティストとしての長いキャリアを持つマックは、昨今のアートの傾向──例えば政治的な状況についての直接的な表現など──をどのようにとらえて自身の制作を続けているのだろうか。
「私は決して政治的な状況には関与してきませんでした。それらに触れることさえ避けてきました。しかしある種の弁証法的な出来事において──物語的であったり比喩的であったりする芸術に関与することなく──私が美学のために戦うかぎり、アート・シーンや私たちの文化的環境で起こっていることに、強い影響を与えると宣言するでしょう。これは、私が可能なかぎり美しいものをつくることをためらわない、世界中でも数少ないアーティストのひとりだからです。断固として明言しましょう。これはアートの良心やアートのモラルといった問題であるだけではなく、同時に、私の直接的な意図にかかわらず、政治に関して起こるたいていひどく失望させられることへの一種の抗議行動でもあります。私が抗議するアーティストのようなものであることは明らかですが、その方法は非常に平和的なものです。私は抗議のために通りへと出向くことはしませんが、私の作品は、世界で起こっていることへの反論のようなものなのです。もしも軍が1台のパンツァー(ドイツの戦闘車両)に費やす資金を私に与えたなら、私は世界の小さな一部分をより幸せで平和な場所にすることができたでしょう」。
(『美術手帖』2018年8月号「ARTIST PICK UP」より)