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「わかっている人」同士のコミュニティだけではもう成立しない。開館から1年の「ANB TOKYO」で山峰潤也が考えること

公立美術館で長く学芸員として活動しながらも、2020年に職を辞して東京・六本木のアート・コンプレックス「ANB TOKYO」の共同代表を始めたキュレーターの山峰潤也。なぜ美術館を後にし、新たな道を模索したのか。美術館を「外」から変えようとする山峰の思考を語ってもらった。

聞き手・文=安原真広(ウェブ版「美術手帖」編集部)

ANB TOKYO「Encounters in Parallel」(2021)にて、山峰潤也。左=山本華 《机上》、右=横手太紀《When the cat's away, the mice will play》、窓ガラスに長田奈緒《Two wipe marks(7F, ANB Tokyo)》

──山峰さんはこれまで、東京都写真美術館や金沢21世紀美術館、水戸芸術館などの公立美術館で長く学芸員として活躍されてきました。しかし美術館から外に出て、2020年より東京・六本木のアート・コンプレックス「ANB TOKYO」の共同代表を務めています。なぜ公立美術館を後にして独立した動きを目指したのでしょうか。

 最初に勤務した東京都写真美術館は、学生時代にアルバイトしていたこともあって一番長く在籍していました。もともと、映像や舞台芸術、メディアアートを大学で学んでいたので、写真美術館の事業は自分の専門と合致しており、入ってすぐに企画展や作品管理に携わるようになりました。また国際展である「恵比寿映像祭」にキュレーターとして関わらせていただいていたので、海外のビエンナーレの調査や、国際的なアーティストとの仕事をすることができて、非常に貴重な経験ができました。

 そのいっぽうで、多くの公立美術館に指定管理者制度が導入されて以来、学芸員をめぐる非正規雇用の問題が非常に厳しい状況になっていました。家族を養うとか、親を支えるとか、とてもそんなことは言えない給与体系のなかにいたので、やりがいは感じていたものの、少しずつ疲弊感が溜まっていく状況でした。その後、金沢21世紀美術館と水戸芸術館で勤務して、さまざま企画を行いましたが「展覧会を通して訴えているこのメッセージはきちんと社会に届いているのだろうか」「いい企画ができたとしてもそれが行政のなかで評価され、美術館や職員が置かれている状況が改善されることはあるのだろうか」という疑念が大きくなっていきました。

 また、上記の指定管理者制度の問題のほかにも、学芸員としてふたつの考えさせられる事件がありました。バブル崩壊後、多くの美術館で収集予算や展覧会予算が減ることが続いており、さらには2017年4月に当時の山本幸三地方創生相がセミナーで「一番のガンは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドがまったくない。一掃しなければ駄目だ」と発言したことがありました。美術館(博物館)が持つ研究、収集、保存、展示を通して、文化を過去から未来に継承していくという役割を無視しているので極論だとは思いますが、経済的に厳しい状況のなかで文化や教育が聖域として守られるわけではないし、こういった目線を踏まえたうえで、なお支持される道理づけが必要だと感じるようになりました。

 加えて「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展」における展示中止問題で浮き彫りになった状況もそのひとつです。「Black Lives Matter」や「#metoo運動」もアートの動向に大きく関わっているし、政治性は、現代美術におけるとても重要な要素です。ただ「あいちトリエンナーレ2019」のケースにおいてはハレーションが大きくなりすぎて、行政や市民の側からの現代美術に対する懸念が広まっていったと思います。政治の本質として、政治家は票を集めることが非常に重要で、母数の多いレイトマジョリティが支持しないものを支援することが難しい傾向にあります。結果的に政治家は多数決において勝てる方法を取らざるを得ない。そして、文化予算の多くは公的資金に依存している。そうなってくると、現代美術に対する負のイメージがある以上、政治的には優先度を上げづらい、ということになります。

 その後は経済やビジネスの方面から現代美術への注目度が高まっていたので、また状況が異なってきた面もありますが、雇用、経済、政治の面を考えると、美術館を囲む状況の土台が腐り始めていると感じていました。「表現の不自由展」における問題は、日本ではシュプレヒコールをあげることで社会が変わらないことの証明でもあったので、オセロのように一つひとつ、白と黒を入れ替えながら状況を変えるにはどうしたらいいかな、と考えるようになっていきました。こうした状況のなかで「ANB Tokyo」の話が出てきたので、美術館の外から土台を直していく道に進もうと思いました。

「Encounters in Parallel」(2021)展示風景より、点在する岩や映像作品は藤倉麻子、床は吉野もも《枯山水》、奥の映像作品は小山泰介によるもの

──いま指摘されていた行政がアートに予算を割く余裕がない現状に対しての対策のひとつとして、アート・マーケットの活性化が挙げられるのではないでしょうか。

 そうですね、たしかに美術館とアート・マーケットの距離は大きいです。違う価値観で動いているので、お互いわからないから手を出したくないということが大きいと思います。現場の学芸員も、実際に現代美術作品をギャラリーで買うという経験がそこまで豊富ではないから、アート作品を買いたいというコレクターの欲望に対する理解もそれほど深くはないと思います。それは、日本の美術の価値観のなかで「資本と迎合しないことが良いもの」という意識が根強いことも、ひとつの要因かもしれません。

 でも、実際には美術は資本がないと成り立たない。90年代に日本で多くの美術館ができたことや、多くの著名な作家の作品が日本にあるのも経済力の問題が大きいですし、日本の近現代の美術史に残る作家や活動には、富裕層や特権的な地位にある家系の方々がいることも少なくありません。美術館を設立し運営するうえでも大きな資金が必要ですし、アートと資本は、本質的には切っても切り離せないものなので、経済の観点から見直していくことも非常に重要です。だから、世界で動いているアートマーケットの経済原理を理解することは、ミュージアムにとっても重要なことではないかと思います。

 コレクターの意識も重要です。映画にもなったグッゲンハイム美術館の基礎となったペギー・グッゲンハイムのコレクション、ベルギー・ゲントのゲント市立現代美術館(S.M.A.K)に多く所蔵されているマチス・コール・コレクション、また国内では国立西洋美術館に多く所蔵されている松方コレクションも個人コレクションです。今後、日本の収蔵予算が爆発的に増えるということは考えられませんから、日本の文化的な財産を誰が守るのかということは、ミュージアムはもちろん個人コレクターにとっても重要なテーマではないかと思います。文化を通して時代や地域のアイデンティティを醸成していくには、文化と経済の垣根を超えた新しい共通理解を形成していくことが必要だと感じています。欧米では、文化財は歴史や社会に価値のある公共性のある財産という考えがあります。こうした考え方にもとづくと、個人コレクターがコレクションを地域の美術館に寄託し、美術館が活動のなかで利用するというケースも考えられる。さらに、将来に向けてどのような作品が残ることが重要なのか、という目線も育っていくと思います。日本ではコレクター同士のネットワークも徐々に広がっているようですから、いろんなタイプのコレクターが増えていくと、全体を見たときに多様性のある作品群が日本に残っていくことになります。

 ただ、こうした公共性を踏まえた観点でコレクションしていくには、投機性や趣味性にだけよらず、専門性をもった人たちの客観的な目線も必要になります。そのため、コレクターと専門家がもう少し近い距離で、公私を横断したコレクションのあり方を議論する機会が増えたり、税制優遇などの制度整備も進んでほしいと個人的には思います。

「Encounters in Parallel」(2021)展示風景より、大岩雄典+砂山太一《悪寒|Chill》

──しかし、ビジネスとアートのあいだには、アートのとらえかたひとつとっても、未だに大きな溝があるように思えます。

 たしかにビジネスの世界は美術から遠く見えますけど、それをどうやって変えていくかということを考えなければいけないと思います。もともとANB Tokyoは、株式会社アカツキのCEOの香田哲朗さんが始めたこともあって、ビジネス層の方々との接点が多いです。昨今は企業がアートに参入していますし、アートに対する世の中の期待値の高さはすごく感じます。大きなお金が動くオークションやNFTが注目され、他方でミックスゾーンの創出や地域貢献としてアーティストの可能性が期待されている。アートに関するビジネス層や行政、メディアからの関心も高まり、多くのニーズも生まれています。

 しかし、実際にアートにはどのような効果があるのか、アートのアイディアをどのように具体化させていくのかはわかっていない。そのなかで「アート」という語から違うものを連想し合いながら話している状況が生じます。ですので、僕は「アート」のどの部分の話をするべきなのかを見抜き、相手の言葉とすり合わせして翻訳いくことがすごく重要な仕事だと強く自認するようになりました。

 アートには地域活性や資産という面もありますが、社会の分断を再接続したり、言葉では伝わりづらいことを感情と感覚を通して語りかけたり、国際的なプレゼンスを高める力もあります。僕はアートをトランプにおける「ジョーカー的」な存在と表現しますが、使い方によってまったく価値が変わるわけです。だからこそ扱いが難しいし、また奥が深い。そのおもしろさを引き出していくには、既存の制度ではカバーできない領域を支援する方法を確立する必要があると思っています。世界的に見れば、現代美術の実験的な活動を支援する国際的なアートファンド「Outset Contemporary Art Fund」や、アジアのアーティストをニューヨークに滞在させいてインプットと交流の機会をつくる「Asia Cultural Council」などの好例があります。

 また、昨年度参加していた内閣官房と文化庁による文化経済戦略の有識者会議のなかで、インパクト投資やフィランソロピーという言葉が度々出ていました。イギリスには「nesta」、アメリカでは「Upstart Co-Lab」といった団体がありますが、いずれも短期経済におけるリターンではなく、文化や社会にもたらされた成果をアウトカムとしています。ただあくまで投資なので、効果測定の手法を確立して、価値を可視化できるようにしていく必要がありますが、こういった組織が日本でも育っていくと、新しい動きができ活性化されていくと思います。現在の活動でもファンドレイズの難しさは感じていますが、アートの多面的な価値と、文化に投資することの意義を説明していくことの先に、意思のこもった新しい文化資本の基盤がつくられていくと、おぼろげながら実感するようになってきました。

国立台湾美術館「世界不隨人類生滅」(2021)より、中央が宮永愛子作品。奥左に新井卓作品2点、奥右は露口啓二の作品群 撮影=ANPIS FOTO 王世邦 提供=國立臺灣美術館

──日本におけるアーティストの価値づけが、美術館とマーケットで完全に分断しているのも問題ではないでしょうか。

 おっしゃるとおり日本においては、マーケットから立ち上がってきたアーティストと、国内外の美術館や国際展で価値が認められてきたアーティストとの乖離は大きくあると思います。互いに見ている世界や価値基準が違っていて、ときとして「アート」という言葉を使いながらも、まったく別の話をしているように感じることもあります。

 森アーツセンターギャラリーで開かれた「KAWS TOKYO FIRST」(2021)に日本側の監修者として関わりましたが、マーケットやポピュリズムの影響力を考えるいい機会になりました。KAWSはもともとグラフティライターとして活動をはじめ、ファッションブランドやトイメーカーとのコラボ、ARやパブリックアートなどで話題となり、美術館でも展覧会をするようになっていきました。そして『ArtReview』の「Power 100」でも今年(2021年)、29位にいます。それは、批評家やキュレーターなどの専門性のある人たちによる評価によって価値形成されてきた世界に、一般社会での認知度が強い力を及ぼすことになってきたことを示していると思います。こうした現象はもちろんKAWSだけの話ではありませんが、ひとつのわかりやすい事例だと思います。

 ただ、専門家を排した状況でアートの価値が決められている状況は危ういと思います。オークションレコードやニューヨークを始めとした海外での活躍、有名人からの支持、ビジネスピッチなどで注目を浴びて、日本の美術市場を賑わせるアーティストも増えてきます。しかし、オークションは数名の人で競い合うことで値を上げていくことができるし、ニューヨークのアートや海外フェアもピンキリですし、貸しスペースのある美術館で個展を開催することもできます。つまり、ある程度プロトコルを掴んでおけば、価値があるような状況をつくり出せてしまうわけです。でも、それだけではMoMAのコレクションやヴェネチア・ビエンナーレといったアートの本筋には入ってこられない。いっぽうで、本筋で勝負できている日本人アーティストはたくさんいます。しかし、その人たちは日本の一般社会でのプロトコルでレピュテーションづくりをしているわけではないので、日本での知名度は高くはありません。

 こうした状況は、世界と日本、マーケットとアカデミーの分断を生んで、日本独自のガラバゴス化したアート像をつくり上げることにつながってしまいます。また数年前にあったキュレーションサイト問題に似た価値根拠の脆弱性を生み出します。そうした時に、多くの作品を見て、国内外の動向を知っているキュレーターや批評家の動向が改めて重要になります。ただ、彼らはここで話したようなプロトコルにはあまりに無頓着だし、NFTなども含むマーケットのめまぐるしい動向にも、もう少し目を向けておく必要はあると思いますけどね。

国立台湾美術館「世界不隨人類生滅」(2021)より、アデル・アビディンによる《Symphony》と《Al-Warqaa》 撮影=ANPIS FOTO 王世邦 提供=國立臺灣美術館

──「ANB TOKYO」を1年やってきて、改めて気がついたことや、見えてきたものはありますか。

 これはANB Tokyoの活動の方針でもありますが、色々な分野の人が集まって、縦割りの社会を横軸でつないでいくことから新しいことが生まれる可能性を信じてみたい、という気持ちがあります。これまでかなり保守的なことを言ってきましたが、新しい関係性からいままでの仕組みでは生まれなかったことが始まるとおもしろくなると思うんですよね。そうした考えをもとに、昨年に引き続き、全フロアを使って「Encounters=遭遇」という言葉から展示「Encounters in Parallel」を行いました。新しい出会いから生まれる創造的可能性ということを展覧会で表現するために、これまで接点の少なかったアーティストを招いて、話し合いを重ね、接点や関心を見つけながら展覧会をつくっていく。そうすると、互いの境界線が少し溶け合いながらも、それぞれの個性はより際立って見えてくる、という状況が生まれます。さらにそこに、山川冬樹さんや飴屋法水さんにも参加していただいたオンラインライブを重ねていって、展覧会とライブが交差していく企画を行っています。ANB Tokyoは、再開発に伴うビルの取り壊しまでの時限的なプロジェクトですが、ここで重ねた実験の成果を持って、異分野の人同士の新しい関係が生まれる環境や事業をつくっていけるのではないかと思っています。

 また、ANB Tokyoではありませんが、2021年の私の大きな仕事に、10月から台湾の国立台湾美術館で、1600平米を使って開かれた「世界不隨人類生滅(The World Began without the Human Race and It Will End without It)」という展覧会があります。宮島達男さんや宮永愛子さん、新井卓さんなどの日本人作家のほか、台湾やイラク、フィンランドなど14組の作家が参加した国際展です。文化人類学者のレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」からとられたこのタイトルは、新型コロナウイルスによって人間中心的な進歩史観で進んでいた社会のあり方を改めて問うものとしてつけられました。このなかでは、自然と人間の関係性を考えさせるもの、エネルギー資源や戦争、暴力にまつわる搾取にまつわるもの、生命の円環や美しさを想起させるものなどが呼応しながら展示されています。人新世やSDGsなど、今日的な主題に結びつく内容で、広く社会に対するメッセージを持っていますし、構成も凝っていて、インスタレーションも良いので、感覚的に訴えうるものになって現地では非常に評判が良く来場者も多かったようです。こういったことを通して、アートはその閉じた世界のものではなく、社会に対して発信していく力があるということをキュレーターとして提示していきたいですね。海外での仕事は、日本とは違う受容のされ方なので刺激的で、挑戦ができます。

 僕の根っこはキュレーションなので、空間や映像、光、物質といった、言語を超えた表現を交えてコンテクストを構築しながら、同時代にむけた問いを立てていくことが本職です。ですが、ここまでのことをさせてくれる環境は日本ではなかなかありません。一般社会におけるアートへの理解を深めていく土台をつくるのはここからなので、長い道のりですが、エッジの立ったキュレーションができる環境づくりも含めて、こうした活動を続けていきたいなと思っています。

編集部

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