ギャラリストとの出会い
——大学院を修了後、山本現代で初個展を開催する2010年までは、3年ほどブランクがあります。このあいだの活動について教えてください。
主に貸し画廊で展示をしていました。当時は様々なコマーシャルギャラリーが新設されていましたが、私は箸にも棒にも引っかからないといった状態。多摩美の同期はみんなコマーシャルギャラリーに所属していたので「すごい」と思っていました。
——山本現代のディレクターである山本裕子さんとの出会いはどのようなシチュエーションだったのでしょうか?
山本さんは2009年のVOCA展で作品を見ていただいた後、メールで連絡がありました。その頃、山本現代のウェブサイトには「全方位的鬼才求む」みたいなメッセージが掲載されていて、所属している作家の方々も独特だから、私の中ではもう鬼しかいない「山本現代のイメージ」が勝手にできあがっていた(笑)。だから山本さんから連絡をいただいたときは「ウソ、私が!?」と、信じられなかったです。
——そのメールは個展のお誘いだったのですか?
まずは「興味があるからスタジオを見に行きたい」というものでした。私は6畳一間の小さな部屋で制作をしていたので、「ギャラリーに絵を持って行きます」と伝えたんです。ところが、当時の私は何を血迷ったのか、シロクマがソフトクリームを持っているような絵を持って行ってしまった。すると「こういうものは求めてない」みたいなことをズバッと言われて、その瞬間「もうダメだー!」と絶望的な気分になりました。
1ヶ月の猶予をもらって、その期間にPhotoshopでひたすら図案をつくり、プリントアウトを繰り返して、そうして見いただいた案でなんとか「いいじゃないですか。個展をしましょう」とお返事をいただきました。大学を合格したのと同じくらい嬉しかったですね。
——山本現代に所属することで、次のステージに上がったというような、アーティストとしての道が拓けた感覚がありましたか? それよりも不安が大きかったのでしょうか。
それまでは「コマーシャルギャラリーに入れなかった自分は落ちこぼれ」みたいな気分があったんです。でも所属したら今度は「成果を出さなければ」という思いが芽生え、まったく安心できなかった。その気持ちが駆動力になってきたと思います。
アートの疑問の答えはアートの中にある
——その2010年の初個展「フラッシュ」はどのようなものだったのしょうか。当時のステートメントを読むと、「光」が大きなテーマだということがわかります。
いま振り返ると、かなり漠然としたテーマですね。「都会の光」と「スラム」など、生活のコントラストがひとつのテーマでした。あとは、家財や妾、馬を全部焼き払うみたいなシーンが描かれたドラクロワの《サルダナパールの死》(1827)の時代背景と、現代に起こる災害とを置き換えるような作品も出品しました。
——当時から、作品中に古典作品を取り入れていたんですね。
はい。ただ、その頃はかなり設定重視でした。ドラクロワの構図に、インターネット上の画像や、撮影した写真をコラージュしていました。
——2010年といえば震災前ですが、なぜこのとき「災害」だったのでしょうか?
父が勤める会社が、洪水の被害にあったんです。そして、きれいな質感と色できれいなものを描いたら本当につまらないものができてしまうという恐怖を持っていたように思います。ダーティで暗い部分を、花や光と組み合わせた明暗のコントラストで描いたらすごく気持ちが悪くて、めちゃくちゃな絵になるだろうと期待していた。
山本現代での個展が決まって「物々しくしないと。がんばらないと」って、すごく大きな気負いとプレッシャーがあった気がします。
——なぜドラクロワだったのでしょうか? ドラクロワをはじめ、学生時代には今津さんの作品の中に登場しなかった名画や美術史の文脈が、この頃から作品内で見られるようになります。
当時、「アートの疑問の答えはアートの中にある」という誰かの言葉を知って「なるほど」と納得して。その言葉をひとつのきっかけとして、過去の作品の中に答えを探ろうと思いました。
——今津さんの「疑問」というのは?
「私はどんな絵が描けるんだろう?」という、悩みに近い疑問ですね。絵画に対してあらゆるアプローチが試みられ尽くされたことを感じて、行き詰まりを感じていたんです。だから、同じことが繰り返されてきた長い歴史を持つ絵画に、組み合わせと細かい差をつくることで違いをもたらせるのではないかと考えていました。
あとは、歴史を参照すれば、その歴史の厚みを借り、過去との時間差を一気に縮められるように思いました。
絵画の上ではすべてが並列になる
——その後、2015年の個展「Broken Image」(山本現代)では、廃仏毀釈といったテーマが登場します。
インターネット上で作品素材の画像を集めるにつれ、戦争やイコノクラスム、廃仏毀釈によって失われ、画像だけが現存する美術作品に興味が出てきました。当時、ISISがイラクの文化遺産を破壊しているというニュースが報道されていたことも、作品にリンクしています。
——いまはもう存在しないものをインターネットで集め、絵画に仕立てるといったことですね。
はい。絵具でイメージを引き延ばすと、どうしても暴力的に見えてしまう。でも私は破壊したいわけではなく、絵画上で修復を行っているというモチベーションが制作の根底にありました。そのいっぽうで、いつ・どこでそれらの作品がつくられたかは関係なく、絵画の上では並列になり、「指先ツール」の引き延ばす効果によってきわめて同等に見えることも面白いと思っていました。
あとは、アンドレ・マルローが1947年に著書の中で提唱した「空想美術館」がインターネット上ではもう可能になっていますよね。情報社会が発展した後の状況下だからこそ、私はいまのスタイルをつくることができていると実感した時期でもあります。
——理由が複合的ですね。なおかつ、今津さんが自身の作品のスタイルに自覚的になったひとつの転換点であるように感じられます。
そうかもしれません。2015年からは、Photoshopの図案をプロジェクターでキャンバスに投影し、それに沿って絵を描くなど、手法の面でも変化がありました。
——どのような動機でプロジェクターを取り入れるようになったのでしょうか?
Photoshopのツールを使ってイメージの一部を引き延ばすことやiPadでイメージを拡大するときの指の動きを、プロジェクションしたイメージをなぞる、そして実際に腕を使って絵具を引っ張る行為に接続させたかったんです。
昔は、プロジェクターを使ったほうが描くスピードが早くなるメリットがあるとわかっていながらも、使わないほうがいいと思っていました。なぜなら、プロジェクターを使うと投影されたかたちに絵具を沿わせようとして、線が硬くなり、動きが全部死んでしまうから。でもそれは制作の回数を重ねていくことで解消しました。