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INTERVIEW - 2018.8.12

美術史、私、テクノロジーが
指さす景色。今津景インタビュー

インターネット上に点在する古今東西のイメージや身近なモチーフをコンピュータ上で構成し、その仮想世界をキャンバスに描き起こしてきた今津景。選ばれるモチーフのなかには、ドラクロワ、マネ、歌川広重などによる名画も含まれ、その思考と制作の根底には、脈々と続く美術の歴史が息づいている。山本現代で個展「Measuring Invisible Distance」を行った今津に、幼少期や作家としての現在、これからの話を聞いた。

今津景 撮影=佐藤麻優子

今津景 撮影=佐藤麻優子

感性で描かれた絵画は、世の中に出尽くしている

——今津さんはこれまでにドラクロワやマネ、そして今回の展覧会「Measuring Invisible Distance」ではブランクーシなどをモチーフとした作品を出品するなど、芸術の歴史と自分の作品を関係づけることに意識的に取り組まれているように思われます。まずは、今津さんが絵画の歴史を意識する理由について教えてください。

 私は感性や感覚で自由にキャンバスに絵を描くということができないんです。なぜならマティスのあの素晴らしいカラッとした線や塗り、カラヴァッジオのドラマティックなスペクタクルを見てしまうと、これはもう絶対にかなわない、十分に完成された人がすでに巨匠としてごろごろ存在している。そんな絶望が最初にあって、私に何ができるだろうと考え出したのが始まりです。

——制作において、今津さんはAdobe Photoshopのデータをもとに絵画を描く手法をとっています。「いま絵画でできること」の追求のひとつに、そのようにコンピュータを使用するといった試みがあるのでしょうか?

 はい、そうだと思います。

幼少期から大学時代まで

——今日は、そうした現在地に至るまでの、今津さんのこれまでのお話についてお伺いしていきます。まず、山口県出身とのことですが、どのような幼少期を過ごしていたのでしょうか。

 生まれは山口ですが、父が転勤族だった関係で静岡、茅ヶ崎など、全国各地を転々としていました。私は、生まれてすぐに先天性心室中隔欠損症という心疾患を患っていることがわかり、両親は「この子は20歳まで生きることができないかもしれない」と医者に言われたそうなんです。いまはこんなに元気なので問題がないのですが、病気のこともあってとにかく自由に育てられました。

——どのようなきっかけで絵を描くようになったんですか?

 絵は、落書き程度のものであれば小さな頃からたくさん描いていました。覚えているのは、『バンビ』の脚と、『うしろの百太郎』の百太郎の顔。なぜかそのふたつはとくに気に入っていて、連日必死に描いていました。

——美術大学を志したのはいつ頃でしたか?

 高校時代ですね。祖母がすごく厳しくて、「家族みんな国立大学卒だから、とにかく国立大学に行きなさい」と言っていたんです。そんななかで、東京藝術大学は国立大学だけどセンター試験はたった2教科だし、実技がすべてだと知って、「これはどうもすごく入試が楽そうだ」と。絵は好きだけど、アーティストになりたいとは思っていなくて、結局2浪してしまいました。簡単そうだと思っていたけど、全然楽ではなかったです(笑)。

——浪人中は美術予備校に通っていたんですか?

 はい。鎌倉美術研究所という予備校に体験入学をしたら、講師の人から「君は絶対、油彩画が向いている」と言われて、予備校に通いながら油絵の学科を目指しました。

——2年の浪人生活のなかで、色々と考えることも多かったのではないのでしょうか。

 まず、2年間も浪人したことが、正直すごく嫌でした。「こんなにがんばったんだから元を取りたい」とも思いました。その反面、自分は結構飽き性なのに絵は全然飽きないということにも気づきました。

 あとは浪人中に、モダニズムの歴史や日本の美術の歴史を知って、ひとえに絵と言っても多様な描き方があると初めて知ったんですね。何を選ぶか、どこに向かって発表するか、美術がどのように成り立ってきたかをもっと深いレベルで知ることができた。それは面白かったです。

——そして、2001年に多摩美術大学美術の画学科油画専攻に入学します。大学時代の思い出はありますか?

 予備校が毛利悠子さんと一緒で、大学も同じ多摩美だったので、入学直後、ふたりで沖縄に免許を取りに行ったりしていました。それと学部3年生まではほぼ絵を描かず、陶芸や楽器をつくったりパフォーマンスをしてみたり、一通りのことはやりましたね。あとは、ジャンベばかり叩いてました。

今津景 PUZZLE(草上の昼食) 2013

——3年間ほぼジャンベを?

 はい(笑)。知人にアフリカ人ジャンベ奏者がいて。「卒業したらジャンベのユニットを一緒に組まないか」と誘われたのですが、ふと我に返って、「絵をちゃんと描こう」と。それが3年生の終盤です。

テクノロジーを作品に取り入れる理由

——当時はどんな絵を描いていたのでしょうか?

 光の輪郭だけを取り上げた、2層のレイヤーからなる風景画でした。当時ははとにかくリヒターが好きだったので、大学1年生の頃に買った、側面がスケルトンになっているカラフルなiMacとPhotoshopでフォトペインティングのような作品をつくっていました。でも、そのつくり方ではあまりにも絵が簡単にできてしまうので、つまらなく思えてきたんですね。それからPhotoshopを使って試行錯誤を始めました。

——大学時代からPhotoshopで下絵をつくり、それをもとに絵を描くという手法を取り入れていたんですね。

 はい。テクノロジーを自分の作品に取り入れることにはそれまでずっと興味がありました。コンピューターやスマートフォンの登場で、現代に生きる私と歴史上の巨匠たちでは、物事に対する反応のしかた、空間認識が全然違うように思ったので、それを絵画空間に落とし込めたらと考えていたんです。

 もうひとつ覚えているのは、その頃、自分のまわりではいわゆる「かわいい絵」が流行っていたことです。でも、そのかわいくてみずみずしいセンスは若さゆえのもので、10年経ったら作家の中から消失してしまうんじゃないかと思っていた。私は「自分の感性」にすごく大きな疑いを持っているから、その部分は外部に任せようと決めました。

——その「外部」がPhotoshopなんですね。Photoshopを使って具体的にどのような加工を行っているのでしょうか?

 画像をPhotoshop上で構成し、「指先ツール」で加工を施すことが多いです。「指先ツール」には何百種類という筆があって、すごく大きなデータを加工する場合には、パソコンの演算のスピードが追いつかず、ウゥーーンと鈍くずれながらエフェクトが生まれる。結果が予測できないうえに、何回もやり直しができるところが気に入っています。

——そこで使う「画像」はどのようなものですか?

 作品のテーマに合う画像をインターネットから収集します。当時はTumblrをはじめとした様々なSNSで無数に写真素材を見ることができるようになった頃で、「無限に絵が描ける」と嬉しかったですし、描くモチーフに迷うことがなくなりました。

ギャラリストとの出会い

——大学院を修了後、山本現代で初個展を開催する2010年までは、3年ほどブランクがあります。このあいだの活動について教えてください。

 主に貸し画廊で展示をしていました。当時は様々なコマーシャルギャラリーが新設されていましたが、私は箸にも棒にも引っかからないといった状態。多摩美の同期はみんなコマーシャルギャラリーに所属していたので「すごい」と思っていました。

——山本現代のディレクターである山本裕子さんとの出会いはどのようなシチュエーションだったのでしょうか?

 山本さんは2009年のVOCA展で作品を見ていただいた後、メールで連絡がありました。その頃、山本現代のウェブサイトには「全方位的鬼才求む」みたいなメッセージが掲載されていて、所属している作家の方々も独特だから、私の中ではもう鬼しかいない「山本現代のイメージ」が勝手にできあがっていた(笑)。だから山本さんから連絡をいただいたときは「ウソ、私が!?」と、信じられなかったです。

——そのメールは個展のお誘いだったのですか?

 まずは「興味があるからスタジオを見に行きたい」というものでした。私は6畳一間の小さな部屋で制作をしていたので、「ギャラリーに絵を持って行きます」と伝えたんです。ところが、当時の私は何を血迷ったのか、シロクマがソフトクリームを持っているような絵を持って行ってしまった。すると「こういうものは求めてない」みたいなことをズバッと言われて、その瞬間「もうダメだー!」と絶望的な気分になりました。

 1ヶ月の猶予をもらって、その期間にPhotoshopでひたすら図案をつくり、プリントアウトを繰り返して、そうして見いただいた案でなんとか「いいじゃないですか。個展をしましょう」とお返事をいただきました。大学を合格したのと同じくらい嬉しかったですね。

——山本現代に所属することで、次のステージに上がったというような、アーティストとしての道が拓けた感覚がありましたか? それよりも不安が大きかったのでしょうか。

 それまでは「コマーシャルギャラリーに入れなかった自分は落ちこぼれ」みたいな気分があったんです。でも所属したら今度は「成果を出さなければ」という思いが芽生え、まったく安心できなかった。その気持ちが駆動力になってきたと思います。

今津景 フラッシュ 2010

アートの疑問の答えはアートの中にある

——その2010年の初個展「フラッシュ」はどのようなものだったのしょうか。当時のステートメントを読むと、「光」が大きなテーマだということがわかります。

 いま振り返ると、かなり漠然としたテーマですね。「都会の光」と「スラム」など、生活のコントラストがひとつのテーマでした。あとは、家財や妾、馬を全部焼き払うみたいなシーンが描かれたドラクロワの《サルダナパールの死》(1827)の時代背景と、現代に起こる災害とを置き換えるような作品も出品しました。

——当時から、作品中に古典作品を取り入れていたんですね。

 はい。ただ、その頃はかなり設定重視でした。ドラクロワの構図に、インターネット上の画像や、撮影した写真をコラージュしていました。

——2010年といえば震災前ですが、なぜこのとき「災害」だったのでしょうか?

 父が勤める会社が、洪水の被害にあったんです。そして、きれいな質感と色できれいなものを描いたら本当につまらないものができてしまうという恐怖を持っていたように思います。ダーティで暗い部分を、花や光と組み合わせた明暗のコントラストで描いたらすごく気持ちが悪くて、めちゃくちゃな絵になるだろうと期待していた。
 山本現代での個展が決まって「物々しくしないと。がんばらないと」って、すごく大きな気負いとプレッシャーがあった気がします。

——なぜドラクロワだったのでしょうか? ドラクロワをはじめ、学生時代には今津さんの作品の中に登場しなかった名画や美術史の文脈が、この頃から作品内で見られるようになります。

 当時、「アートの疑問の答えはアートの中にある」という誰かの言葉を知って「なるほど」と納得して。その言葉をひとつのきっかけとして、過去の作品の中に答えを探ろうと思いました。

今津景 サルダナパールの死 2012

——今津さんの「疑問」というのは?

 「私はどんな絵が描けるんだろう?」という、悩みに近い疑問ですね。絵画に対してあらゆるアプローチが試みられ尽くされたことを感じて、行き詰まりを感じていたんです。だから、同じことが繰り返されてきた長い歴史を持つ絵画に、組み合わせと細かい差をつくることで違いをもたらせるのではないかと考えていました。
 あとは、歴史を参照すれば、その歴史の厚みを借り、過去との時間差を一気に縮められるように思いました。

絵画の上ではすべてが並列になる

——その後、2015年の個展「Broken Image」(山本現代)では、廃仏毀釈といったテーマが登場します。

 インターネット上で作品素材の画像を集めるにつれ、戦争やイコノクラスム、廃仏毀釈によって失われ、画像だけが現存する美術作品に興味が出てきました。当時、ISISがイラクの文化遺産を破壊しているというニュースが報道されていたことも、作品にリンクしています。

今津景 Repatriation 2015

——いまはもう存在しないものをインターネットで集め、絵画に仕立てるといったことですね。

 はい。絵具でイメージを引き延ばすと、どうしても暴力的に見えてしまう。でも私は破壊したいわけではなく、絵画上で修復を行っているというモチベーションが制作の根底にありました。そのいっぽうで、いつ・どこでそれらの作品がつくられたかは関係なく、絵画の上では並列になり、「指先ツール」の引き延ばす効果によってきわめて同等に見えることも面白いと思っていました。

 あとは、アンドレ・マルローが1947年に著書の中で提唱した「空想美術館」がインターネット上ではもう可能になっていますよね。情報社会が発展した後の状況下だからこそ、私はいまのスタイルをつくることができていると実感した時期でもあります。

——理由が複合的ですね。なおかつ、今津さんが自身の作品のスタイルに自覚的になったひとつの転換点であるように感じられます。

 そうかもしれません。2015年からは、Photoshopの図案をプロジェクターでキャンバスに投影し、それに沿って絵を描くなど、手法の面でも変化がありました。

——どのような動機でプロジェクターを取り入れるようになったのでしょうか?

 Photoshopのツールを使ってイメージの一部を引き延ばすことやiPadでイメージを拡大するときの指の動きを、プロジェクションしたイメージをなぞる、そして実際に腕を使って絵具を引っ張る行為に接続させたかったんです。

 昔は、プロジェクターを使ったほうが描くスピードが早くなるメリットがあるとわかっていながらも、使わないほうがいいと思っていました。なぜなら、プロジェクターを使うと投影されたかたちに絵具を沿わせようとして、線が硬くなり、動きが全部死んでしまうから。でもそれは制作の回数を重ねていくことで解消しました。

今津景 Battle Between Lapiths and Centaurs 2015

 

インドネシアで見つけたこと

——今回の個展「Measuring Invisible Distance」では、「進化と母性」がテーマだという約2×4mの絵画《Swoon》の上に、黒い線が登場しているのが気になりました。これは、これまでの今津さんの絵画では見られなかった要素ですが、この黒い線は何を表しているのでしょうか?

 これはケーブルの線をイメージしています。2017年の2月と7月のそれぞれ1ヶ月間、ジャカルタでアーティスト・イン・レジデンスをしたのですが、そこで出会い、いま山本現代で一緒に個展をしている(取材時)、バグース・パンデガくんの作品のライトに、電気信号を送るたくさんのケーブルがついていたことから、ケーブルというものに興味を持ちました。

 あとは、ロサンゼルスで訪れたジェイソン・ローデスの回顧展で、ケーブルとオブジェクトが絡まって吊るされたインスタレーションを見て感銘を受けました。まるでインターネットやネットワークがオブジェクトとして目の前に存在している感覚があったんです。

——ジャカルタでのレジデンス経験はいかがでしたか?

 インドネシアでは、Photoshopの下絵スケッチを、モレンという現地のデザイナーに任せてみたんです。そうしたら、私が持ちえないような空間認識のスケッチができあがってすごくよかった。奥行きのあるマネの絵画空間に興味があったのですが、モレンのおかげで「マネの空間が現れた!」と嬉しかったです。他人に下絵を任せたことがなかったので、大きな発見ができました。

今津景 撮影=佐藤麻優子

——たしかに、今回の個展で出品された作品は、奥行きが感じられる絵画が多いですね。また、絵画の外側に、点滅するハートのランプ、骨のかたちをした立体物などを設置した展示方法も印象的です。

 パンデガくんのインスタレーション作品の設営を3週間ほど手伝った関係で足繁く山本現代に通ううちに、空間のいろいろな使い道に気づくことができ、今回の展示方法に至りました。

 例えば天井から絵を吊るすとか、絵の中で起こっていることを、山本現代の空間にもサーキットのように点在させるといったこと。これは、大学時代からいろいろな絵画空間を試し、1枚の画面にまとめてきたことを、空間に拡張させるような試みです。1枚の絵画に描かれたブルーの空間が、他の作品にも登場していたりもします。

——《Swoon》では吊り下げられたキャンバスの背景に、壁紙のように青色が彩られるなど、青が多用されています。

 今回の個展では、「水」も強く意識しました。ドリッピングのような手法や、溶いた絵具の水っぽさは、私の作品ではかなり珍しいと思います。生命の源、死、孤独、泥、ミルクといった水が持つイメージに関心があったので、ブルーを多く用いています。

今津景 Swoon 2018

​——展覧会タイトルの「Measuring Invisible Distance」(見えない距離を測る)は、そうしたテーマにどのように関係づけられているのでしょうか。

 最近あらためてハル・フォスターの『視覚論』を読み、光学的に見るということと、デカルトの遠近法主義的に見るということなど、「見る」の多様さを面白く感じたことから見る・見えないをテーマとしました。

 加えて、視覚と触覚は限りなく近いということを制作中に実感するので、そんな「絵画における謎の視覚体験」を見た人に感じてほしいという思いをきっかけとしたタイトルです。

——視覚と触覚が強く結びついていることが、見る人にも伝わるような絵になっているんですね。

 はい、そう希望しています。絵だからこそ感じられることは多いと思うんです。例えば篠原有司男さんやイヴ・クライン、白髪一雄の作品は、画面の前の瞬間的なアクションが永遠性になって定着する。それはJPEGだけでは伝えきれないものですよね。

今津景 撮影=佐藤麻優子

「自由に楽しいことがしたい」という思いを肯定する

——「Measuring Invisible Distance」にはそうした「見る」の要素に加え、今津さん個人の視点で美術史を振り返りながら、自分との作品の距離を「測る」など、今津さんの作家としての姿勢も表れているように見えます。

 そうだと思います。ただ、私と美術史の関わり方はこの展覧会で少し変化していると思います。2010~16年頃はもっとストリクトで、自分の物語は全部排除して、とにかく美術史や社会状況だけを参照してつくろうとしてきたんです。自分の物語は描かなくても、選ぶ色に表れてしまうものだから。でも、もう少し、自由に楽しいことがしたいと思ったんです。

——それはインドネシアでの滞在制作の経験も関係しているのでしょうか?

 現地の人がみんなすごく自由だったから、そうかもしれないですね(笑)。例えば「結婚したい」「赤ちゃんがほしい」「かわいい骨のかたちを描きたい」とか、そういった欲望を、絵画の上でもう少し自由に認めたいと思うようになりました。そうして自分を絵画上に投影することで、より自由に美術史を参照できるようになった気がします。

——今後の展望について教えてください。

 じつは7月にインドネシアに引っ越すことになりました。インドネシアは政治状況や宗教観も同じアジアといえど全然違うムードを持っているトロピカル。本当にカオスなんです。火山も多いしとにかく色々な島や人や言語がある。それゆえに自分が日本で気にしていることがすごく小さく感じられることがありました。

 日本で育ち、教育を受けてきたゆえの作品の「硬さ」は逃れられない業のようにつきまとってくると思うのですが、インドネシアの環境で変化が見られるといいな、と楽しみにしています。目の前の状況を受け取りながら、作品に生かしていきたいです。