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[特別寄稿]山本浩貴:現代アートにおいて国旗を損壊することは何を意味するか──私が国旗損壊罪法に反対する理由【3/3ページ】

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 国旗損壊罪法は「国旗を大切に思う国民感情を保護する」目的をもつという。「国旗を大切に思う国民感情」とは、要は「愛国心」と呼ばれるものだ。この点に関して、しばしば「愛国心は強制されるべきではない」という意見が提出される。その意見には賛成だが、加えて、「愛国心を表現する仕方はひとつではない」と言いたい。

 将基面貴巳が説明するように、本来、「愛国」は共通善への奉仕に基づく「パトリオティズム」の訳語であった(将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房、2019年)。だが、日本では愛国が、自国の独自性にこだわり、それに対する忠誠心が形成する「ナショナリズム」の意で理解される。いずれにせよ、自らが生まれ育った場所に愛着を抱く気持ちは即座に否定されるべきものでないと私は考える。近年、ナショナルな文脈を重視しつつ、国民が政治的自己決定権をもつ「リベラル・ナショナリズム」の議論も盛んだ。

 しかし、ジョン・アトキンソン・ホブスンが20世紀初頭時点で指摘していた通り、ナショナリズムは容易に他の民族集団を攻撃する植民地主義に転化する(ホブスン『帝国主義論』矢内原忠雄訳、岩波文庫、1951年)。事実、2000年代以降、極端なナショナリズムの高まりが世界中で見られる。日本でも、インターネットを空間ふくめ、在日朝鮮人などのエスニック・マイノリティに対する排外主義が顕在化した。

 自らの生まれ育った国が誤った方向に進んでいると考えたとき、きちんと批判の声をあげることができる自由は墨守するに値するものだ。それも愛国心のあり方だ。本心を言えば、それこそが「本当の」──あまり使いたくない表現だが──愛国心だと思う。そして、そうした批判の目的は「国旗を大切に思う国民感情」自体を毀損することではない。

 歴史家のリン・ハントは、「歴史を学ぶこと」が過去の人々の考えや行動を理解し、現代社会の課題に対して批判的に対処するためのヒントを与えると主張する(リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』長谷川貴彦訳、岩波書店、2019年)。国内外の事例を問わず、自国の進路に異を唱える者を「非国民」と決めつけ、排除したとき、その国が後戻りできない過ちを犯してしまう傾向があるのは火を見るより明らかだ。

 見てきたように、イギリスのブラック・アーティストたちは作品のなかで国旗の損壊を通じて自国の民族差別や排外主義を象徴的に批判した。国を愛していなかったから、そうしたのではないだろう。自分が生きる国がより良くなるために、そうしたはずである。表現行為には、その可能性がある。民族差別や排外主義がなくなれば、もっと愛することのできる国になる。それゆえに表現行為のなかで国旗を損壊した。それは(しばしば罵倒されるように)「ゆがんだ」動機だろうか。そうした罵倒のなかに逆照射されているものこそ、ゆがんだ愛国心であるように思われる。

 国旗損壊罪法はアーティストが表現行為を通じて国家を批判する自由を侵害すると同時に、国家に対する愛着の示し方を一義的に規定するものだ。この文脈で「国を愛するがゆえに批判する」というのを「転倒したロジック」と決めつけるのは単純にすぎると思う。

 ただし、「現代アート」と称した作品のなかに、ただただ他人に不快感を与える目的で国旗を損壊するものが出てこないとは言い切れない。国旗損壊罪法施行に乗じて、批評的意図を欠いた国旗損壊のパフォーマンスを行うアーティストも出てくるかもしれない。とはいえ、そのような事態を避けるためといって、国に規制したり、ましてや──他人に直接的な害を及ぼすのでなければ──処罰したりできる権力を与えるべきではない。

 そのような作品は批評を通じて批判すべきだ。日本の現代アート界で批評が適切に機能しているとは言いがたく、それは言説生産にたずさわる私自身の責任でもある。政治的メッセージを含む作品を──しばしば「アクティビズム」とラベルを貼ることで──価値が低いと決めつけ、反対に、難解さを無批判に称揚する風潮がないか。

 国旗損壊罪法成立に際して、アート界──繰り返すが、そのようなものがあるとするならば──が連帯して反対することは大切だと私は思う。だが、自らの領域にまつわる反省的思考もまた同時になされる必要があるはずだ。

編集部