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[特別寄稿]山本浩貴:現代アートにおいて国旗を損壊することは何を意味するか──私が国旗損壊罪法に反対する理由

2026年8月に施行された「国旗損壊罪法」は、その内容から表現行為への萎縮効果が懸念されている。こうしたなか、今夏、高知県立美術館のコレクション展で柳幸典の《ヒノマル・イルミネーション》が展示された。文化研究の山本浩貴による本稿は、同作を出発点に、イギリスのブラック・アーティストの作品などを引きながら、現代アートの文脈から国旗損壊の意味を考察し、表現の可能性を狭める新法に対して連帯して反対の意を示す理由を記す。 ※10月12日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

文=山本浩貴

柳幸典《ヒノマル・イルミネーション》(1992) 高知県立美術館蔵 撮影:中島健藏 ©Yukinori Yanagi

1.

 2026年8月13日、日本国旗の損壊を対象とする処罰規定が初めて明記された「国旗の損壊等の処罰に関する法律」(以下、「国旗損壊罪法」)が施行。第二条に、こうある──「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する」。

 これに対する主な論点は2つ──「著しく不快又は嫌悪の情」、「公然と」という文言をめぐって。まず、人が「不快」や「嫌悪」を催している(しかも「著しく」)かどうか、誰が、どのような基準で判断するか不明瞭な点。そして、国旗損壊が「公然と」なされたか、何を以って決定されるかも曖昧だ。よく指摘される、これらの論点は本稿では繰り返さない。

柳幸典《ヒノマル・イルミネーション》(1992) 高知県立美術館蔵 撮影:上野則宏 ©Yukinori Yanagi

 さて、柳幸典の《ヒノマル・イルミネーション》(1992)が先月まで高知県立美術館で展示されていた(コレクションによる特集展示 特集Ⅱ「ヒノマル・イルミネーション」、7月19日~9月22日)。同館所蔵作品の《ヒノマル・イルミネーション》は、これまでも定期的に披露されてきた。ゆえに、この展示はとくに国旗損壊罪法成立のタイミングで企画されたわけではないと思われる。とはいえ、この法律がアーティストや美術館に委縮効果を及ぼす懸念も指摘されている。特定の表現や展示を躊躇させる可能性だ。であれば、このタイミングで《ヒノマル・イルミネーション》が「通常通り」展示された意義は小さくない。

 《ヒノマル・イルミネーション》は奇しくも8月15日に故障し、9月3日に復旧。その2日後、私は高知を訪れた。そのときに同行した『美術手帖』編集長の岩渕貞哉さんから、「《ヒノマル・イルミネーション》を起点に、国旗損壊罪法について現代アートの文脈から論考を書く」依頼を受けた。本稿は、こうした背景から書き始められている。

故障後、消灯した状態の《ヒノマル・イルミネーション》展示風景(2026年8月17日撮影) 写真提供:高知県立美術館

 当初、タイトル通り、「現代アートにおいて国旗を損壊することは何を意味するか」について議論するつもりでいた。その議論をまとめるなかで、結局、サブタイトルのように「私が国旗損壊罪法に反対する理由」を述べていることに気づいた。

 ちょうど本稿を書き始めたとき、美術評論家の暮沢剛巳が「Tokyo Art Beat」で論考「私が『国旗損壊罪法』に反対する理由──日の丸を描いてきた美術の側から」を発表した。すでに暮沢も賛同者に名を連ねた美術評論家連盟有志の共同意見「表現の自由を制約する国旗損壊罪の新設に反対します」が公開されており、次いで国際美術評論家連盟(AICA)も作品の検閲につながるとして同法の廃止を求める声明を出した。

 アート界──そのようなものがあれば──があらゆる点で意見の一致をみる必要はないし、多様性という意味では、そうあるべきでないと私は考える。しかし、今回の事態は例外だ。国旗損壊罪法は表現行為の可能性を狭めるゆえ、連帯して反意を示すべきだと思う。そのため、本稿は暮沢論考とは異なる関心と視座から書かれるが、連帯の意を込めてサブタイトルとして踏襲した。

2.

 《ヒノマル・イルミネーション》はアーティストの柳幸典が1992年に制作した大型のインスタレーション。日の丸の形に配置されたネオン管が、明滅を繰り返しながら旭日旗、日章旗、日食などに変化する。機械的反復やネオンの人工性は無機質な印象を与え、国家の虚構性や非永続性を示唆しているように感じられた。

 《ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム》(1990)や《バンザイ・コーナー》(1991)といった作品を見れば、柳が国家やナショナリズムといった対象を批評的かつユーモラスに脱臼させようとしてきたのがわかる。また、《アーティクル9》(1994)に示されるように、彼自身の政治的イデオロギーも明白だ。少なくとも、私にはそう思われる。

 だが《ヒノマル・イルミネーション》だけを取り上げたとき、「右派と左派」という二項対立──有効性を失いつつある対立軸──のうち、どちらのイデオロギーに与しているかは自明でない。少なくとも、即時的・一義的に決定することは困難だ。とくに戦時中のアジアにおける帝国主義的侵略の主体である大日本帝国を象徴する旭日旗の援用は、左派的な目線からすれば危うさを伴う。事実、この作品は両翼からの毀誉褒貶にさらされてきた。

 20世紀に世界的な国民国家体制が確立されて以来、国旗は国を象徴する記号であり続けてきた。ベネディクト・アンダーソンが国家は「想像の共同体」だと喝破した後でもなお、そうである(ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳、書籍工房早山、2007年)。現代アートの作品でも、様々な仕方で国旗が使われている。戦後美術史を例にとれば、ジャスパー・ジョーンズの《旗(Flag)》(1954)はアメリカ国旗を忠実に再現した絵画。ポップ・アートの先駆けとされる同作の美術史的意義は、しばしば「日常的な素材」をアートに取り入れた点であると説明される。このことは、私たちの多くにとって、国旗が身近なものであることをよく示している。1993年にヴェネチア・ビエンナーレで発表された柳の《ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム》も、アート界で世界的に知られる国旗を用いた作品だ。

 だが、その「使われ方」は非常に多様であった。左右を問わず、明確なイデオロギー性をはらむ作品は数多くある。他方、《ヒノマル・イルミネーション》のように、一見しただけでは国家を批判しているか賞賛しているか不明瞭なものも多い。暮沢も言及する小早川秋聲の《國之楯》(1944)──「英雄的な死を讃えるというより、敗戦国の象徴と死者の鎮魂を重ね合わせた日の丸の扱いに賛否が分かれそうな作品」(暮沢)──も、そのひとつだ。すぐに付け加えると、はっきりとした政治的主張を含む作品が、それだけで「劣る」と言いたいわけではない。

 いずれにせよ、時に挑発的・露悪的な仕方で鑑賞者の複雑な思考を促すのは現代アート作品の特徴のひとつだ。国旗損壊罪法は、こうした豊穣な両義性を消失させるおそれが大いにある。たしかに、この法律は自国批判の作品を検閲する意味で表現の自由を侵害するものだ。だが同時に、それは鑑賞者の思考を刺激し、撹乱し、拡張する両義的表現の余地を大きく狭める危険をもはらんでいる。国旗損壊罪法が現代アートの複雑性の縮減に立脚していると私が考える理由だ。それは同法に反対する理由でもある。

編集部