3月8日は国際女性デー。国際連合が、「国や民族、言語、文化、経済、政治の壁に関係なく、女性が達成してきた成果を認識する」日として定めており、権利と機会の獲得に向けた支援を高めるきっかけとしても機能してきた(参考:国際連合広報センター)。
そんな国際女性デーの日に読みたい本を、3月8日にちなんで3つの切り口から8冊紹介する。
写真表現の世界から
『ジェンダー写真論 増補版』
笠原美智子は約30年ものあいだ、日本の美術界におけるジェンダーや性の表現に注目し、この価値を訴えてきたキュレーター(現在、アーティゾン美術館副館長)。日本の美術館で初めてフェミニズムの視点から企画された展示「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」(東京都写真美術館、1991)も、笠原が手がけたものだった。
本書は、そんな笠原の著作『ジェンダー写真論 1991 – 2017』(2017)の増補版にあたる。本編では、世界編と日本編に分かれて「セルフ・ポートレイト」や「ヌード写真」、ダミアン・アーバスから石内都、志賀理江子、田口和奈、荒木経惟ら日本の写真家について紹介。「人種、階級、セクシュアリティとジェンダー」の章にある「未来へ」という括りの文章は、フェミニズムという「愛」の行為について綴っており、ケア論的な視座も見られるため熟読されたい。
本編と豊富な図版に加え、写真家・長島有里枝と女性アーティストの状況について振り返る記念碑的対談「なぜ、私たちは出会えなかったのか。」も新たに収録。写真表現におけるジェンダー史から日本の美術界で「ジェンダー」が咲いた1990年代の動き、現在地点まで把握できる内容となっている。
石内都写真集「Infinity ∞ 身体のゆくえ」
写真家・石内都の「身体」をテーマにしたアンソロジー。1980年代末から2009年まで作品のうち、自らと同年生まれの女性の手足を撮影した「1・9・4・7」、舞踏家大野一雄の皮膚を撮った「1906 to the skin」や男姓の身体の末端を探求した「爪」、トランスジェンダー(性別越境)をテーマとする「A to A」などのシリーズを収録。本書のタイトル「Infinity ∞ 身体のゆくえ」は、「限りある生の時間を終えたあと、身体は何処へ向かうのか」という石内の問いから生じているという。
皺や傷跡といった、身体に刻まれる生の軌跡をとらえた石内の写真を見るとハッとする。皮膚という他者から見える表面に、私たちは何を映し出しているのか。性の染み付いた身体を生きることも、そこから逸れる瞬間を迎えることも、心から望む生き方から離れていないだろうか。写真を眺めているうちに、自分の身体と「私」の距離を見つめ直すことになるだろう。
なお、本書にも収められている母の遺品を撮影することでその存在に再度向き合った「Mother’s」シリーズは、現在水戸芸術館で開催中の「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」に出品されている。
学術の世界から
『ジェンダートラブル : フェミニズムとアイデンティティの攪乱』
言わずと知れた革新的な一冊でありながら、その内容は既存の身体論を一つひとつ問い直すバトラーの入念な姿勢がうかがえるもの。「文化的な性」と説明されるジェンダーについて、生得のセックス(法的概念)というものがまずあり、これに文化が意味を書き込んだものではないとして、セックスとジェンダーの相互影響を指摘していることにも目が止まるだろう。
とりわけ、避けるべきとされているトラブルが、ジェンダーに関する問題の解決に向けては必要不可欠という主張には、月日が経ったいまでもどうしてか勇気づけられるものがあるはずだ。英語圏文学や表象文化の分野におけるフェミニズム・セクシュアリティ研究の第一人者だった竹村和子の訳も堪能したい。
『平等と効率の福祉革命 新しい女性の役割』
福祉国家を長年研究してきた政治社会学者、イエスタ・エスピン=アンデルセンの著作。「女性の社会進出が未完だと、社会格差が拡大する」というセンセーショナルでさえある指摘を中心に、世界各国の福祉政策やジェンダー不平等の様相が見えてくる内容となっている。
本書を手に取るなら、エスピン=アンデルセンという学者の歩みも知っておきたい。提唱した福祉国家類型論が、フェミニズムの視点から「分析単位や分析概念がジェンダー中立的ではない」という批判を受けたエスピン=アンデルセンは、脱家族主義化という概念を導入して「福祉レジーム論」を確立させてきた。本書においても、フェミニズムの批判に耳を傾け、内容を咀嚼して前進してきた歴史が十分感じられるだろう。
なお、本編では日本に関する考察はほとんどないものの、訳者の大沢真理・九反田(難波)早希の解題で本編の批判的検討とともにしっかりカバーされている。2022年には文庫版も発売されており、ポケットサイズながら1冊で2度美味しい本になっている。
『フェミニズムってなんですか?』
東京大学大学院総合文化研究科教授で、フェミニズム・クィア理論を専門とする清水晶子による一冊。歴史を振り返るだけではなく、「性教育」「夫婦別姓」「同性婚」「セックスワーク」など、近年ニュースで取り上げられる機会が増えたトピックから論じているので、学術的ながら読みやすく、入門にもぴったりの本になっている。
ここ数年で大きく動いた、あるいは広まった「ジェンダー」の近況をおさらいできるのはもちろん、タイトル「フェミニズムってなんですか? 」を良い意味で裏切るように、紹介にとどめることなく、批判的な切り口や問いかけ、理想や解決に向けた道筋も提示。常に今日の問題として考えを促す語り口にも惹かれるだろう。
さらに、アーティストや作家との対談も収録。写真家・長島有里枝との対談では、摂食障害を振り返った二人の対話から見えてくる「女性」という概念やマイノリティのなかの多様性に目を凝らしたい。
第一人称の世界から
『自分で「始めた」女たち 「好き」を仕事にするための最良のアドバイス&インスピレーション』
デザイナー、作家、ミュージシャン、イラストレーター、モデル、家具職人、スタイリスト、キュレーター、陶芸家、ジャーナリスト……様々な仕事で活躍中の112人の女性のカラーフォト&インタビューをまとめたソフトカバー。
どのページにも好きなことや夢を追いかけた先にある美しい世界が広がっているが、それはきっと憧れでは終わらない。女性という性に囚われるのではなく、ときに格闘して、これを謳歌している。それぞれが持つ唯一無二のストーリーを眺めているうちに、読み手の内からもパワーが湧いてくることだろう。
『男らしさの終焉』
心のどこかで「ジェンダー=女性による女性のための女性の学問」と思っていないだろうか。本書はターナー賞受賞アーティストで「トランスヴェスタイト(異性装)」のグレイソン・ペリーが、「男らしさ」を問い直す一冊。詳細な内容についてはこちらの記事も参照されたい。
女性が「女性らしさ」に「NO」を言ったように、男性だって必ずしも「男性らしさ」に頷かなくていい。男性もまた、マジョリティ側に置かれ、「男性性」を植えつけられ獲得してきたという「真実」を、重たくなりすぎない語り口で伝えてくれる。著者が手がけるキャッチーな挿画も本書の魅力のひとつだ。
「男性」が女性との区別から生まれたのと同じく、「女性」も男性の補集合としてある。だからこそ、私たちは従来の窮屈な「女性」を解体することを望むならば、「男性」についても知る必要があるに違いない。そこにはきっと、自らを大事にするための他者理解の可能性が開かれているだろう。
『往復書簡 限界から始まる』
社会学者・上野千鶴子と作家・鈴木涼美による、計12通の往復書簡をまとめた一冊。
切れ味の鋭い意見を発信する姿で知られる上野だが、書簡から見てとれるのは、日本のフェミニズムにおいて草分けとして駆け抜けてきた者の矜持と懐古だ。こうした一面は、他の上野千鶴子の論文や著作物の理解をも変えてしまう、ある種の強烈ささえ持っている。
当事者性を持って発信してきた鈴木による、男性に対する違和感や異物感の言語化にも注目されたい。ジェンダー平等や男女共同参画を推進していくにあたって「ないもの」として扱うことは許されないほど、構造的かつ環境依存的な産物であり、むしろこのような「限界」からしかはじめられないのだと強く感じさせる。
鈴木の「母と娘」の関係性についての吐露や、上野の「巨人の肩の上に乗る」発想のすゝめからはまた、個人間のやりとりを超えた世代間の対話が実現していることが認められるだろう。鈴木が発した「上野さんはなぜ男に絶望せずにいられるのか?」という問いへの返答は、ぜひ本書を手にとって確認してみてほしい。