ジェンダーの/について語る構造の、 不均衡を前に
ジェンダーを軸に、男性/女性、ヘテロセクシズム、人間/非人間(人形や動物、機械との融合)の境界や差異を問う本展では、「家族」「性と生殖(器)」「変身あるいは異種融合」といったキーワードで作品どうしが連想的につながり合い、星座的付置を描き出す。
とりわけ中心的位置を占めるのが、ユゥキユキと遠藤麻衣×百瀬文の作品である。ユゥキユキ《あなたのために、》(2020)では、毛糸で編まれた巨大な女児の人形の胎内を覗き込むと、内臓か血管のように毛糸が絡みつくベッドと映像作品が置かれている。この巨大な人形は、作家の母親が、娘たちの独立後、「三女のサン子ちゃん」と呼んでいた人形がもとになっており、作家と母親がともに編んだものだという。胎内に設置された映像では、毛糸で編んだBLのコスプレ衣装を着た作家と友人が、毛糸をほどいて服を脱がし、同じく毛糸で編まれたペニスを愛撫するように指でほどいていく。「家庭内での女性の領域」とされてきた編み物・手芸を用いて、「母親にとって理想的な娘」=人形を造形しつつ、編まれた衣服や性器をほどくことで、「母の呪縛」からの解放と同時に新たな性愛のかたちを紡いでいく。
また、遠藤麻衣と百瀬文のコラボレーション作品《Love Condition》(2020)は、「理想の性器」について二人が話しながら、粘土を指でこね、新しい性器の形を次々と成形/変形させていくプロセスを記録した映像作品である。男性器を介在させず、男性の欲望に搾取されず、ペニス・射精中心主義への従属から解放されるためには、どのようなかたちや可能性がありうるだろうか。1時間以上に及ぶ会話を続けながら、突起を増殖させたり、トンネル状に貫通する穴を掘ったりするプロセスを通して、固定化を拒む流動性と「あるべき正しい姿」などないという表明が浮かび上がってくる。「理想」はひとつではなく無数にありうるし、開発可能なのだ。柔らかい粘土は「可塑性」の象徴でもある。それは、「女性器」という、社会的にタブー視され、物理的にも体内にあって「(自分自身にも)見えない」ものについて、身体的性差やヘテロセクシズムの枠組みを超えた地平から主体的に語り直し、取り戻そうとする試みである。また、粘土をこねる行為は、「それに触れてはいけない」という硬直した固定観念を柔らかくほぐしていくものでもある。粘土を挟んで時に絡み合う二人の指は、それ自体疑似的なセックスのようにも見えてくる。
展示全体を通して「男性」はほぼ排除されているが、暴力的に介入・回帰してくるのが、百瀬文の映像作品《Social Dance》(2019)である。ベッドに横たわる聾者の女性と聴者の男性が手話で会話するうちに、女性が恋人をとがめるささいな出来事が、両者の溝と口論に発展していく。ここで戦慄的なのが、「手を握る」という親密さや慰めであるはずの行為が、「手話で話す相手を遮り、発話を制止する」暴力へと反転する事態だ。百瀬の作品は、「手話のコミュニケーション」のかたちを借りて、聾者と聴者の関係に「ジェンダーの非対称性」を重ねることで、「男性が女性の声を抑圧し、封じる」構造を批判的に暴き出す。
ここで、本展を別の角度から見ると、「女性作家」「女性性」を一元化して一枚岩的に扱わず、「沖縄」「在日」「障害者」「トランスジェンダー」「(ファンタジーを介在させた)同性愛」といった内部に抱え込む地理的・民族的・社会的・セクシュアリティのさまざまな差異や周縁性に配慮した選定がうかがえる。それは、「女性」というカテゴリー内部に存在する多様な差異の指摘と横断的交差を重視した90年代の第三波フェミニズムに対する、日本国内の美術界からの(遅れた)応答といえる。もちろん、この「差異のリスト」はさらなる細分化や追加が可能であるが、重要なのは、差異を認めつつ、問題の構造的原因に対して連帯の可能性を探り、「女性」というカテゴリーを本質論的に自明視してそのなかに閉じ込めようとする抑圧と、内部に抱える差異によって分断と対立を誘発し、内側から瓦解させようとする抑圧の双方に対して、異議を投げかけていく姿勢である。
最後に、あえて疑問点を挙げるなら、「歌う」というタイトルと顔写真付きのキャプションに違和感を感じた。たしかに本展出品作には「歌」がいくつも登場する。家庭内で夫婦がそれぞれ歌うオペラ/ウチナーグチが不協和音を奏でる山城知佳子の《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)。男尊女卑的価値観の家庭に育ち見合い結婚を繰り返した母親との会話に、ドラァグクイーン風のメイクを施したかぐや姫をオーバーラップさせ、「月へは帰らない。私のままで生きていく」とラストで歌う乾真裕子の《月へは帰らない》(2020)。また、スプツニ子!の《生理マシーン、タカシの場合。》(2010)では、MV風のポップソングにのせて、メイクと女性ものの服を着た身体に、生理を疑似体験できる装置を着ける少年が登場する。もちろん、「歌」には情動を強く揺さぶる力がある。だが、明晰な批判的思考の道具としての「ロゴス」ではなく、非理性・感性的なものの象徴としての「歌」が「女性」にあてがわれる点には疑問が残る。同様に、女性作家に焦点を当てた展覧会タイトルが、「Inner Voices 内なる声」(金沢21世紀美術館、2011)、「クワイエット・アテンションズ 彼女からの出発」(水戸芸術館現代美術センター、2011)と、「内なる」「静かな」といった語彙を冠せられてきたことが想起される。「彼女たちは雄弁さ、明確な主張、明晰な批評性を持たない」と見なされかねない言葉の選択に対しても、問い直していかねばならない。
また、作家紹介キャプションに「顔写真」は必要だっただろうか。「(若い)女性」であることの「証明」、視線の対象物であることを、展覧会の制度それ自体が再生産してしまう事態は、本展の問題意識と大きな齟齬をきたし、裏切ってしまう。
世界経済フォーラムが発表した「ジェンダー・ギャップ指数2020」で「153ヶ国中121位」の日本において、展覧会という思考装置を通してジェンダーについて問う意義と必要性は極めて大きい。だが、「なぜ、女性(作家)だけがジェンダーについて語り続けなければならないのか」という不均衡さへの根本的な問いもまた、同時に絶えず投げかけていく必要がある。「女性作家」という括りや「女性性」の強調は、男性/女性というジェンダーの二元論の強化や再生産に陥る可能性がある。そうではなく、不均衡に立脚した性差のシステムによって駆動する構造そのものの無効化こそが賭けられている。